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松本卓也『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

狂気を、精神の病を、いかなるものとしてとらえるかは、哲学にとって、最も重要な論点の一つである。古来、狂気は単なる異常ではなく、聖なる力との接触が生み出すものであり、芸術的な創造と不可分のものとされてきた。それぞれの時代の哲学や思想が、狂気をいかなるものとして位置づけ、創造との関わりをどのように評価するのか、プラトン、アリストテレスから、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェを経て、ハイデガー、ラカン、そしてフーコー、デリダ、ドゥルーズに至るまで、この変遷をたどり続けたのが、精神病理学者松本卓也『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』(講談社選書メチエ)である。

 

本書を読んで驚くのは、著者が三つの世界を知悉し、自由に語ることができる点である。

第一に、広範な哲学の歴史に通じるだけでなく、テキストクリティックの内在的な視点を持ちながら、それぞれの哲学思想の核心を語ることができる点である。

第二に、精神病理学が専門であるがゆえに、本書の中で言及される狂気と関わりがあるとされる様々な芸術家、ヘルダーリン、アルトー、ルイス・キャロルなどの作家や詩人についても、思想的、文学的だけでなく、臨床レベルで語ることができる点である。

 

つまり、芸術的、哲学的なテキストを前に、批評的であると同時に臨床的に語ることができる二刀流が可能であることが、著者の大きなメリットとなっており、その俯瞰的な視点は多くの発見を、哲学や現代思想を知悉した者にも与えてくれるのである。

 

第三に、本書の至る所で画像とともに言及されるデューラーや、ゴヤ、ヒエロニムス・ボッシュ、ホルバイン、ゴッホ、ミレーといった絵画に関しても、個々の作品の主題を掘り下げ、哲学の視座との関わりで自在に語ることが可能である点である。この流儀は、フーコーの『言葉と物』の冒頭で語られたベラスケスの『ラス・メナニス』を想起させるが、活字だけの世界にビジュアルな展望を与える効果を本書にもたらしている。

 

さらに、きわめて高度な内容でありながら、平易な語り口で処理され、忍耐力さえあれば中学・高校生でも読めるほどのリーダビリティを備えたテキストとなっている。文系分野の知識と理系分野の知識をシームレスに、そして専門家だけでなく一般読者に向けて語ることができるという点で、本書は比類のない一冊となっているのである。

 

本書のアウトラインを簡略に紹介しよう。

 

一般には、クレイジーなギークが創造的な偉業をなすと考えられているが、本物の精神疾患は芸術創作の妨げになると考えられがちである。しかし、歴史的に見れば、臨床レベルの狂気もまた偉大な創造との関わりを否定できないのである。臨床的な狂気と創造性の関わりを研究する学問として100年以上の歴史を持つ「病跡学」がある。その中で、中心となった言説が、統合失調症(かつての分裂症)に特権的な地位を付与し、躁うつ病やてんかんなど他の精神疾患を「二流の狂気」とみなす「統合失調症中心主義」である。こうしたトレンド自体がいかにして生じたのか、プラトンやアリストテレスの時代にまで遡りながら、「統合失調症中心主義」を問い直すことが、本書の主眼となっている。

 

 ところで、いったいどうして「創造と狂気」という問題が統合失調症という病を蝶番として結びつくことができたのでしょうか。実際、狂気が創造性を生み出すとする考え方は、近代以前にも、少なくともプラトンやアリストテレスの時代にまで遡ることができます。しかし、そのときに―――すなわち、統合失調症が登場する以前に―――いわれていた「狂気」とは、いったいどんな「狂気」だったのでしょうか。そして、現代においては、どんな「狂気」が創造と関係を持つのでしょうか。p38

 

古代においては、狂気は神々に由来する超自然的な狂気と神々とは無関係な人間的な狂気に二分され、後者は前者に劣るものとされてきた。ここで由緒正しい狂気とそうでない狂気の選別に用いられるのが、正嫡子を非正嫡子から区別するプラトニズムであり、ドゥルーズの「プラトンとシミュラクル」やデリダの「プラトンのパルマケイアー」といった重要テキストも援用されることになる。神的な狂気を、他の狂気と選別するプラトニズムは、統合失調症中心主義の源流というべきものである。

 

プラトンが神的な狂気を重視したのに対し、アリストテレスは地上の狂気とりわけメランコリーを傑出した才能の持ち主と結びつけ重視した。当時、ギリシアで信じられていた存在として、神と人間の中間に位置するダイモーンがある。ギリシアだけでなく、ユダヤ・キリスト教でも存在したこの媒介的な存在は、二つの流れが合流するとデーモンとして「悪魔」化されるようになるのである。

 

初期キリスト教においては「怠惰」とされた「うつ」は、15〜16世紀になると、「メランコリー」として創造と結びつけられるようになる。ブリューゲルの絵とデューラーの絵の違いがそれを証言する。そこでのキーパーソンとなるのが、マルセル・フィチーノという15世紀イタリアの神学者・哲学者であった。フィチーノは、メランコリーを占星術の星である土星を結びつけ、肯定的な価値を付与したのだった。

 

『方法序説』の中でデカルトが行ったことは、実はダイモーンが自分を欺くかもしれないという狂気のただ中で、理性を取り出すことであった。

 

フィチーノとデューラーにおいて、土星やメランコリーの否定的な性質を徹底することで肯定的な性質を徹底することで肯定的な性質が得られたのと同じように、デカルトは、自分がメランコリーや悪霊に憑りつかれているかもしれない、という否定的な事態をはっきり認めることから肯定的なものとしてのコギトを打ち立てているからです。p119

 

しかし、デカルトの「コギト」成立以降、純粋な近代的主体の背後にダイモーンは忘れ去られてしまう。そして、狂気は近代的主体の外へと隔離されるようになる。カントが、ルソーやヒューム、さらにはスエーデンボリの誘惑に抗して、批判哲学を打ち立てたのは、人間が内包する狂気を「超越論的統覚」のもと、沈黙させることによってであった。

 

ヘーゲルにおいては、弁証法的運動の中で、狂気は理性に対するアンチテーゼとして、理性をさらに高い段階へ導く存在として位置づけられる。同時に、二十世紀後半になり、バタイユのように、「狂気を乗り越える」というヘーゲルの弁証法的な考えに対する異議申し立ても顕著になった。「世界の闇夜」に属する表象不可能なものがヘーゲルの美学からは抜け落ちてしまうのである。

 

統合失調症的な狂気の起源にして頂点として位置づけられるのが、ヘーゲルの親友であった詩人ヘルダーリンである。水平方向の人間関係になじめないがゆえに、垂直方向の理想へと跳躍しようとして、必然的に挫折につきあたる。そのトリガーとなったのは、一時庇護者と仰いだシラーとの不和であった。そこにあるのは近代的な主体の裂け目なのである。

 

その裂け目は、カントによって隔離され、ヘーゲルによって乗り越えられ、閉じられたものです。ところが、皮肉なことに、ヘーゲルの傍らにいたヘルダーリンによってその裂け目はふたたび開かれ、そこに人類史上最初期の統合失調症が到来したのです。p198

 

かつて神が与えるものであった狂気による霊感は、神なき時代においては、ニーチェのように人間の存在そのものを問いかけることになるのである。

 

ハイデガーは、統合失調症的な狂気を通して、存在そのものへの問いを開く神なき時代の芸術家として、ゴッホやヘルダーリンを高く評価した。ヘルダーリンにおいては、失われた神の「痕跡」が、将来の神との出会いの可能性を拓くものと考えたのだった。統合失調症的でも、否定神学的でもない狂気の可能性はないのだろうか。

 

シュルレアリスムの画家ダリとも親交のあったフランスの精神分析家ジャック・ラカンは、、「父の名」の排除という否定神学的な理論を提示した。ラカンの理論とヘルダーリンの狂気と創造の問題の親和性をはじめて指摘したのは、弟子のジャン・ラプランシュだった。ラプランシュの論文はヘルダーリンの人生と作品を同じ起源から説明しようとするものであり、フーコーは高く評価した。フーコーは、文学の創造を表象不可能なものとの関係でとらえようとする「外の思考」の考えを提示した。

 

フランスの作家、批評家のモーリス・ブランショは、ヘルダーリンの狂気が個別性に影響を与えるというヤスパースの考えに抗して、個別性を消滅させ、非人称的な場を開くものであると考えた。こうした芸術的創造を、統合失調症を同じ「語りえないもの」から来るという考えに抗したのがアントナン・アルトーだった。アルトーを論じたデリダは、ブランショ、フーコー、ラプランシュに共通した議論の陥った陥穽を、指摘する。彼らの何が問題なのか。

 

 デリダは、ヤスパースのような病跡学の言説、すなわち創造と狂気を別個のものとして前提とした上で両者の関係を問う思考を批判しています。そして、そのような言説にひとひねりを加え、創造と狂気を等根源的なものとみて、さらにはその根源を「語りえないもの」として神秘化しようとする否定神学的な言説をも批判します。というのも、ひとたびそのような仕方で何らかの否定的な「根源」が見出されたなら、その人物は悲劇主義的パラダイムにおける「殉教者」となり、同じ「根源」との関係が、他のあらゆる人物にも見出されることになるからです。pp278-279

 

「不可能なもの」が同一不変であるとすれば、個別の特異性は無視され、すべてが金太郎飴となってしまうのではないか。デリダがアルトーの中に読み取ったのは、範例化そのものへの抵抗であった。

 

いったん起こった出来事に対する忠実さを説くアラン・パディウの出来事の哲学も、ハイデガー以降の系譜に属するものだが、この出来事からの逃走を考えたのが、ジル・ドゥルーズである。ドゥルーズは、統合失調症のプロセスそのものを肯定的に評価しようとしたのである。ドゥルーズは、アルトーとルイス・キャロルの差を、「深層」と「表層」の差と考えた。当初は両者を同じように重要視したドゥルーズだが、『批評と臨床』以降「表層」の探究へと傾倒してゆくこととなる。

 

(…)かつて優れた詩を生み出すとされた神的な狂気は現代では価値を失っていおり、これまで価値が低いとされてきた人間的な狂気こそが優れた文学的創造を可能にするのだ、とドゥルーズは主張するのです。p307

 

ドゥルーズは、ルイス・キャロルとともに、病跡学的思考のパラダイム転換をはかろうとする。そのたどりつく先はどこだろうか。

 

『創造と狂気の歴史』は、芸術的創造と狂気の間に語られてきた理論の変遷史であるとともに、私たちの考えの根底そのものを問いかける書物である。それは、同時にポストモダン思想の受容そのものを問い直す書物でもある。いかにして、私たちはフーコーや、デリダ、ドゥルーズをとらえ、消化してきたのか。「狂気」という思考の特異点から、それぞれの思想の独自性と同時に限界が、そして可能性が見えてくる。『創造と狂気の歴史』は、私たちのポストモダンの理解を、一段と深め、さらなる歩みを可能とする教育的な名著なのである。

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