つぶやきコミューン

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柴崎友香『千の扉』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略  ver.1.01

 

 

山手線の内側、新大久保と高田馬場の間にある広大な団地、戸山ハイツ。柴崎友香『千の扉』(中央公論新社)は、この場所を舞台とした長編小説である。

 

【あらすじ】主人公の千歳は39歳。バツイチの永尾一俊と結婚するが、一俊の祖父日野勝男の怪我ににともない、それまで勝男が住んでいた団地へと移り住むことになる。勝男の依頼で、「高橋さん」という男性を探しながら、近所の人や一俊ゆかりのの人びととの交流を深めたり、団地周辺を徘徊する少女と出会ううち、次第にこの場所の歴史やそこに住む人々の記憶が浮かび上がってくるのであった…

 

かつて陸軍の練兵場があり、さまざまな都市伝説が囁かれるこの場所には私も惹かれるものがあって、二度ほど訪れたことがある。一度は上京して間もない時期、都市論盛んなりしころに、そこに山手線内で一番高い山があると聞いて、訪れたのだった。辺りは次々に現れる団地の群れ、その間には深い森のように樹木が生い茂り、鳥が怪しい声で鳴いていたのを覚えている。海抜44mの山は、箱根山と呼ばれ、江戸時代の大名屋敷の庭園の名残り、築山の一種だった。周囲も小高い丘陵地であるため、あまり高さを感じないその頂上に立ちながら、富士塚同様、どこかしら江戸時代のテーマパークのような不思議な感覚を覚えたことを記憶している。

 

次に訪れたのは、デジタルカメラにはまりだして、都内のあちこちを写真におさめるようになってからである。それ以前もカメラは持っていたが、フィルムを現像代を惜しんで、遠出するとき以外写真に撮ることはめったになかった。

 

なぜか表の通りは広々と整備され、大きなスーパーマーケットができていた。ちょうどよい天気の日だったらしく、団地のベランダには一面の洗濯物が翻り、まるで小津安二郎の映画のようだと感じた。団地と団地の間の中庭には、木の枝にカラスがとまっていて、小学生の男の子が何かを話しかけていた。あちこち歩き回り、以前見つけた教会がまだ健在であるのを見つけ、ほっとした。その屋根の向こう側に、新宿の高層ビル群が見えた。

 

なぜか、あやしい地場のようなものを感じて、惹きつけられる戸山団地。そのルーツはどこにあるのだろうといぶかしく思っていたが、最近になって江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを青空文庫で読んでいるうちに発見したのだった。そう、戸山ケ原は、怪人二十面相が誘拐した子供を閉じ込めておくアジトとして描かれていたのである。

 

その現代的な姿の裏に、江戸時代、戦前、戦後とさまざまな時代の層を秘めている戸山団地を、『私がいなかった場所で』『春の庭』『パノララ』など、場所の歴史や謎をテーマとして取り上げ続ける柴崎友香が描くとなれば、単なる私小説的なドラマにおさまるわけがない。日常生活を描きながらも、どこかしらミステリーぽく、どこかしらホラーぽい雰囲気が漂う。しかし、それはこの場所そのものの、巨大な日常空間とそのはざまに垣間見られる非日常の闇、時間の裂け目ゆえになのである。
 

 地図に描かれた大まかな地形と地名だけが同じで、いくつもの別の世界が乗っかっている。誰も、自分の世界しか生きていないが、共通の地図を使っているから同じ街だと思っている。別の時代の街も、別の暮らしがある街も、自分が知っているところと同じだと思っている。自分が見た街ではない時間の街を、すぐ近くにいる別の誰かが見た街を、直接見ることはできないのに。たとえ同じ場所にいても見ることができないのだと、思い知ることしかできないのに。たとえ同じ場所にいても見ることができないのだと、思い知ることしかできないのに。見ることができないからこそ、わたしはどうしても見てみたくなる。知りたいと思う。p247

 

人の主体は、ライプニツの描くモナドのように、窓を持たない。だが、ときどき、『千の扉』はその窓を設けて見せる。すると、そこで召喚されるのは、この場所で過ごしたであろう人々の過去の記憶なのである。もちろん、ランダムにその記憶が喚起されるわけではない。それは千歳が出会う人々の現在を形作ったであろうこの場所の過去の時間なのである。

 

「ときどき、人の頭の中が見えたらええのにって思うねん。考えてる内容とかじゃなくて、人の中にある記憶の景色が見えたらな、って。この団地ができる前も見てみたいし」p211

 

しかし、それにも限界がある。遭遇する人との記憶は生きた人の記憶に限られる。さらに先に進むには、死者をも召喚しなければならない。主人公の視線は、生死の境界をも超えかねないものであろう。

 

「この団地って、幽霊出るとか怪談話とかあるやん」

「らしいね」

「もし、その幽霊っていうのがここに、団地が建ってからでも、その前でも、ここにいた人やったら、話してみたい。話を聞いてみたい。それが、ものすごい恨みでも、つらい話でも、怖ろしい話、ひどい話でも、わたしは聞きたい」

p249

 

『千の扉』の終盤にやってくるのは、これ以上はないような美しいフィナーレである。幻想の中の見い出された時。そして、物語はフランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』のようなエンディングを迎えることだろう。

 

なにかしら、ありえないものを呼び出すのではなく、ある場所にかつてあったものを、次々に召喚してゆくだけで、目もくらむような風景が広大な団地の向こう側に見え隠れする。ひとがある場所で過ごした記憶を完全に伝達し、共有することの不可能性。それゆえにこそ、それらの記憶は愛しく狂おしい。

 

『千の扉』において、柴崎友香は重層的な時間が折りたたまれる場所の特異性だけでなく、そのコミュニケーションの不可能性にまで、テーマを深めた。そのとき、戸山団地は都内の特異な場所の一つであることをやめ、私たちが住んでいた場所、私たちの友人や知人、家族が住んでいた場所のアバターとなる。いつだって、私たちの周囲には、無数の人びとが過ごした場所の記憶が渦巻いている。『千の扉』は、そのテーマと物語との見事な婚姻である。

 

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