JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
飲茶『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』(河出文庫)は『史上最強の哲学入門』の続編、待望の文庫化だ。大きく3つの章に分かれていて、第一章では釈迦や龍樹といったインド哲学、第二章では孔子や老子、荘子などの中国哲学、第三章では親鸞、栄西、道元を中心に日本の哲学を紹介するという構成になっている。
『史上最強の哲学入門』(マガジン・マガジンより刊行のち、河出書房書房新社より文庫化)は、二千年を越える西洋の哲学者たちを、板垣恵介描く『グラップラー刃牙』の最強トーナメントを戦う闘技者たちに見立てながら、切れ味鋭く紹介してゆく体裁をとっていた。著者が個人的に刃牙シリーズのファンであり、その後板垣とも親交ができたという側面ももちろんあるけれど、これも哲学になじみのない人に哲学に親しんでもらおうという一種の「方便」である。この『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』では、一転してリングアナの選手紹介のような語り口はほとんど見られなくなっている。
次の文章を読めば、これが意識的な選択であるとわかるだろう。
あるところに、あまり物わかりのよくない男がいた。しかし、ある日、彼は、大好きなロボットアニメである「ガンダム」で物事をたとえると、すーっと物事が簡単に理解できることを知った。それはようするに、複雑な事象を、自分の中にある「特定のパターン(記号)」に当てはめて単純化して理解しようとする行為であり、たしかに有効な手段であった。
しかし―――。
「うーん、ごめん。なんか難しい話だねえ。あ、じゃあさ。ちょっとガンダムでたとえて言ってくれない? ふむふむ、あーなるほど、つまり、ガンダムでたとえると、はじめてガンダムに乗ってその性能のすごさに驚いた的な話だね」
その手段があまりにも有効すぎたため、いつしか彼は「そうやって物事を捉えること」が習慣になってしまった。そして、その結果、彼は「物事はすべてガンダムでたとえることができ、かつ、物事はガンダムでたとえることでしか理解できない」という病的な先入観を持ってしまった。(ところで、「ガンダム」という言葉にピンとこない人は、『ドラえもん』や『バキ』など日本人なら誰でも知っている身近なものに適宜置き換えてほしい)pp419-420
前作のようなやり方を放棄した以上、もはや個々の哲学者のキャッチコピーによる差別化をはかる必要もなくなり、一人一人の思想をじっくりと掘り下げることができる。それゆえに、『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』は『史上最強の哲学入門』を超える名著になってている。東洋の哲学を語る上で武器として活用されるのが、西洋哲学のロジックである。西洋のものは西洋のもので、東洋のものは東洋のものでといった住み分けは著者の念頭にはない。そうすることで、逆に東洋と西洋の思想の共通点と相違点がはっきりと浮かび上がる結果となるのである。
東洋と西洋の思想の最大の違いとは一体何だろうか。
それは、西洋では言葉で説明しつくすことができればそこで終わりであるが、東洋では言葉で説明した知識を得ただけ(分別知)では、全く目標には達したことにならず、その先にあるものこそが重要だということである。その先にあるものとは、真実を知るだけでなく、それを五感で体得することであり、一般に「悟りと呼ばれるものの世界である。
西洋であれば、「知識」として得たことは素直に「知った」とみなされる。たとえば、ある事柄(哲学、科学の理論など)について知識を取得し、その知識に基づいてきちんと説明できたとしたら、「ああ、あなたはそれについて知ってるね」と認めてくれるだろう。
しかし、東洋では、知識を持っていることも明晰に説明できることも、「知っている」ことの条件には含まれない。なぜなら、東洋では「わかった!」「ああ、そうか!」といった体験を伴っていないかぎり、「知った」とは認められないからだ。p178
一見すると、『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』は、東洋思想や宗教史の教科書のように見える。しかし、教科書が私たちの生活から遊離したレベルの言葉で書かれている(つまり理解するためにはもう一度自分の頭で翻訳し直す必要がある)のに対して、本書は私たちがふだん生活の中で用いている言葉でレベルで表現するよう可能な限り努めているという大きな違いがある。本書の、その高度で充実した内容に比しての驚くべき読みやすさと体感性はここから来ている。
この点については、荘子と老子の違いが参考になるだろう。
なぜ彼はここまで評価され、重要視されるのだろうか。
それは一言でいえば「彼が、老子以上に老子の哲学をわかりやすく書いたから」である。そう、荘子は、オリジナル(老子)よりもわかりやすいのだ。いや、わかりやすすぎる、と言っても過言ではない。だから、実は、初学者が老子の哲学を学びたければ、老子よりも荘子から学んだ方がよかったりする。
なぜ荘子は、老子よりもわかりやすいのか?それはすごく端的に言えば、「老子は書く気がなかったが、荘子には書く気があったから」である。ようするに、ふたりにはモチベーションに大きな違いがあったのだ。
pp310-311
そのために、学問的にこれら東洋の哲人たちを研究している人から見れば、かなりの単純化した部分もある。だが、それでも著者は一刀両断することを止めない。ディテールにこだわり懐疑的になることで真理に近づくことをためらうよりも、とりあえず行けるところまで行き、近づくことが大事なのだ。冒頭で著者があらかじめ述べているように、東洋の哲学に関しては、どのみち本を読んでの完全な理解など不可能なのだから。
このようにして、生きた人間としての釈迦が、孔子や老子が、親鸞や道元が、その思想の本質として、くっきりと浮かび上がるのである。
たとえば、当たり前のことを述べただけで、生前は不遇に終わった孔子が素晴らしかったのはどの点なのか。
「思いやりと礼儀を大切にしましょう」という当たり前のことを言っただけの男が、なぜ釈迦やイエスに匹敵する偉人として名を残すことができたのか?
それは心意気だ!
その心意気が、性根が、孔子は偉大だったのだ!
『論語』を読み、孔子の道徳的言説を学ぶことも大切ではあるが、僕たちが孔子からホントウに学ぶべきことは、「戦国時代、たった一介の学士にすぎなかった男が、歴史を正道に戻そうと、国家権力にも神秘的権威にも屈せずに立ち向かった」というその心意気、ハートの方にこそあるのである。pp226-227
さりげない情報紹介のイントロ部分も、実はおいしいネタをぎゅっと数行に凝縮してある。専門書なら般若心経のこの説明だけで何十ペ―ジも要することだろう。一冊の文庫本のなかにどれだけ多くの知識が圧縮されていることか。
・作者不詳の謎のお経。
・般若経六〇〇余巻を凝縮したお経と言われる。
・現存する最古の原典(サンスクリット版)は、奈良の法隆寺にある。
・普段目にする般若心経は、『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった「玄奘三蔵」の漢訳である。
p119
また、多くの哲人たちの知恵は、そのまま、現代の政治状況を見るのにも役に立つ。個人や集団の利害の正当化でしかないまやかしの言葉を空疎さを暴きだしてくれることだろう。
「(…)日蝕、月蝕、季節外れの暴風雨。そういった天変地異は、いつの世にも起きるものである。君主が聡明で正しい政治を行っているのなら、それがいくら起ころうと、国が揺らぐことはない。しかし、君主が暗愚で悪い政治を行っているのなら、一度も起こらなくても国は滅んでいく。だから、本当に恐れるべきは、人妖(人がもたらす害悪)の方なのである」 (「荀子」)
p251
最後に来る「十牛図」に至る構成も素晴らしいし、さらにその後の「あとがき」も感動的だ。ここでも、単に哲学を紹介するだけでなく、自ら哲学する者としての気概、心意気が感じられる。西洋の哲学が行き詰ったから東洋だという言い方は正しくないし、禅の公案のような方法もインターネットの時代に無効化されない時代、そのままそこで止まってよいわけがない、仏教も老荘思想も禅もさらに一歩進まなければいけないのである。
何も完璧な哲学を作り出す必要はない。東洋と西洋の哲学が出会ったこの地だからこそ生み出せる何か。釈迦や老子がいた頃とは違う時代だからこそ生み出せる何か。この場所とこの時代だからこそ生み出すことができる「当然の何か」を目指せばいいのだ。
p451
著者の飲茶はどのような人かというと、範馬勇次郎のような堂々たる体躯の豪傑などでもなければ、ジャッキー・チェンの映画に出てくる飄々とした立ち居振る舞いの白髪の老人でもなく、一見大学生にしか見えないような繊細で多感な普通のひと、青年実業家(盛りすぎとすれば若き個人事業主)なのである。『ドラゴンボールZ』から取ったのでは、いや、横浜の中華街から来たのかもと誰もが誤解するペンネームのいわれも、まさに東洋の哲人の知恵から由来したものである。
ある禅師が悟ったとき、周囲の人たちは彼にこんなことを聞いた。
「悟るとどうなるのですか? 何が起こりましたか? まず何をしましたか?」
その禅師はこう答えたと言う。
「別に何も変わらなかったよ。ただ「茶」を一杯所望しただけさ。だってお茶を『飲』んで目を覚まし、いまを味わって生きる、それ以外ほかに何かすることがあるだろうか」
本書の著者名は、この禅話に由来する。
p444
『史上の最強の哲学入門 東洋の哲人たち』は、東洋の思想を全く知らない人の混沌たる世界にも、確かな知識の足場、座標軸を築き、どの時代のどの哲学者の方にでも進むことを可能にしてくれる哲学界のどこでもドアなのだ。
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