つぶやきコミューン

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増田俊也『北海タイムス物語』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 

増田俊也『北海タイムス物語』(新潮社)は、作者増田俊也自らが3年間勤務した1980年代末から1990年代初頭にかけての札幌の北海タイムスを舞台にした企業小説である。

 

ベルリンの壁崩壊が全世界に衝撃を与えたころ、野々村巡洋は、早稲田大学教育学部を卒業、都内大手メディアの入社試験にことごとく失敗後、何とか北海タイムスに潜り込んだばかりだった。内心は、もっとステータスが高く、待遇のよい新聞社に移りたいと考えていた。しかし、息つく暇もないような怒涛の仕事がスタートする。現場での取材に飛び出せると思いきや、配属されたのは編集担当の整理部。上司からはバカ呼ばわりされながら、ハードなスケジュールを消化する野々村だが、衝撃の事実を知らされる。北海タイムスの給料は、他社の数分の一で、先輩からは契約したばかりの5万2千円のアパートさえ、もっと安いところへ引っ越さないとたちまち首が回らなくなるぞと警告されるほどなのだ。案の上、受け取った給料のあまりの少なさと、上司の給料さえそれとほとんど変わらないという将来の希望のなさに、何とか職場を変えたいと思うものの、目立たぬ整理部では他社から声のかかりようもなかった。

 

彼を取り巻く整理部の先輩や上司も曲者ぞろいだった。東大卒、ハーバード大学院卒とは真っ赤な嘘で、実は北大柔道部出身の松田俊太(『七帝柔道記』とは異なり、『北海タイムス物語』では、作者は話者と自分に近い属性を持った人間を分離している)。粗な言動が神経にさわる空手の猛者の秋馬謙信。気障男の編集局次長萬田恭介。野々村の教育係で、ぶっきら棒で高圧的な態度の権藤克司

 

右も左もわからぬままに駆り立てられる仕事は、深夜まで続く一方で、薄給と東京への電話代にたちまち首が回らなくなり、サラ金からの借金はかさむ野々村。それに追い討ちをかけるように、東京からやってきた恋人の日菜子には重ねた嘘が発覚し、ケンカ別れしてしまう。

 

けれども、悪いことばかりではなかった。同じ早稲田の出身で、同期入社のロシア人のハーフの浦ユリ子に、野々村は淡い恋心を感じデートにまでこぎつけ、同じ整理部の松田ともしだいに気持ちが通じるようになる。

 

他方、秋馬や権藤のように、心が通じ合わず苦手な相手もいた。何とか彼らから離れたいと直訴するものの、本当はいいやつだからととりあってもらえない。

 

けれども、遅々たる進歩ぶりながら一つ一つ仕事を覚え認められる中で、野々村は次第にやりがいを見出してゆく。だが、そんな彼の周囲への信頼が崩壊するような出来事が生じる。

 

怒涛のような仕事ラッシュの中で、読者もまた自分が右も左もわからぬ中、初めて仕事を任され、途方に暮れたあの苦いけれど、密度の高い日々のことを思い出す。心の扉の向こう側に封印した理不尽な経験の数々さえ思い出さないではいられないのである。

 

圧巻なのは、「ミスタータイムス」と言われた権藤が自らの持てる新聞に関する知識やノウハウをあますところなく野々村に伝授しようとする場面である。わずか一月の間に、凝縮された驚くべき広がりと量の知識が読者へと披歴される。それは、作業が分断され、見失われがちな新聞を作るという行為の全体性を取り戻し、その本来持てる価値を読者にも伝えようとする試みに他ならない。

 

「いいか。いまからタイムスのことだけじゃなく、新聞業界すべてについて大きく捉えた話と、細かい活字の話まで、マクロに見たりミクロに見たり、何度も繰り返して行き来したりしながら教えていく。全部を覚えるんだ。知らないこと、理解できないことを細かく潰していく。知らないことがいっさいなくなったとき、そのジャンルの海原がすべてが見渡せる。自信はそこからしか生まれない」p330

 

それを通じて、読者はまた本物の仕事を行うことの難しさと喜び、その神髄を、奥の深さを知る。

 

僕は、この北海道という大地が好きになったのだ。この北海タイムスという会社が好きになり、ここにいる仲間たちが好きになったのだ。pp417-418

 

濃厚な仕事時間の間に挿入される札幌の数々の場所の描写は、飲食店の所在地情報ともども心を癒してくれるが、とりわけ季節の変化の描写が素晴らしい。

 

  札幌の風景は少しずつだが移り変わり、残雪とコンクリートの寒色に沈んでいた街にパステル画のような色がつきはじめていた。裸の枝々を広げていた街路樹に緑が芽吹き、黄色い花の蕾がぶら下がっている。風に乗っていた雪の香りは緑のそれに変わり、山脈の冠雪はいつの間にか頂に残るのみになっていた。雪の山脈に囲まれたカナダの街に見えていた札幌が、いまではアメリカ西海岸のような空に広がりのある街に見えた。どこまでいっても日本国内には思えない不思議な街だった。p220

 

そこには著者の北海道への、札幌への深い愛情が感じられる。

 

作者の経歴をたどる上では『七帝柔道記』の続編のふれこみの『北海タイムス物語』だが、モラトリアムを長期化させた学生時代の牧歌的な雰囲気はもはやここにはない。あるのは生き馬の目を抜くような熾烈な仕事バカの日々であり、少し足を踏み外すと、経済的困窮に陥り、死に至ることもあるサバイバルゲームの世界である。そして、それは好むと好まざるとにかかわらず、私たちのほとんどが経験したであろうあの日々なのである。

 

時の政権の単なる広報機関に堕しても恥じない新聞人が増える中、『北海タイムス物語』は、新聞本来の使命へと立ち返ることを促す、反時代的な仕事讃歌であり、新聞界やそれでも新聞記者を目指す人々への熱いエールなのである。

 

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