JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略
『かくかくしかじか』1〜5巻は、東村アキコが高校時代から美術大学へ進学、売れっ子漫画家になるまでの道のりを描いた自伝的コミックである。
幼いころから、漫画雑誌だけを読み、漫画家デビューの甘い幻想に浸り育ってきた林明子(本名)。だが、クラスメートで同じ美大志望の二見に、彼女が通う絵画教室へつれてゆかれたところから、運命は変わり始める。そこは、女子高生であろうと容赦なく竹刀でキャンバスを容赦なく叩き、酷評するスパルタ式の教室だった。
そんな実力で、美大に合格できるか、100%落ちると言われ、その日から9時まで居残りを命じられ、週五日通う羽目になる明子。
まさかその時は
自分がこの教室に
足かけ8年
通い続けることになろうとは夢にも
思っていませんでした
大学になっても
大人になっても
漫画家になっても
私はずっとずっと
ここに通い続けて
私の恩師である
日高健三先生と
たくさんの時間を過ごした
あの日から
早20年
かくかくしかじか
こういう理由で
私は今 漫画を描いています
(『かくかくしかじか 1』)
冒頭から流れ続けるナレーションは、やがて切ないトーンを帯びてくることに読者は気づく。一見、無茶苦茶に見えた日高の方針も、プロの漫画家になった今は、それが理にかなっていたことがわかる。だが、その気づきはあまりに遅かったのだ。
あの場所は
全てがただひとつの目的のために
ああでなければいけなかったってことが
今の私には分かります
今さらもう遅いよね
怒らないでね
先生
(『かくかくしかじか 1』)
強面の体育系教師。そんなうわべとは裏腹の温かい心も明子は知るようになる。みんなに入れてくれたお茶のおいしさ。仮病の自分をバス停までおぶってゆくほどのお人好しぶり。
そうだよ
最初からお人好しだったんだよ
先生は
そうじゃなきゃ
バカなんだよ
大バカだよ
ねえ先生
(『かくかくしかじか 1』)
以後も、先生へ語りかける口調で続くナレーション。
その中に、時間が、鮮烈な青春時代の記憶が蓄積されてゆく。
やがて金沢の美大に何とか進むことができた明子、その間にも絵画教室を手伝い続ける。
だが、いつしか描いた漫画が賞として選ばれる。
大学卒業後はいったん地元の会社に就職しながらも、絵画教室を手伝うが、漫画家への夢は断ち切れずに、日高に不義理をしながら、漫画家としての道を邁進する明子であった。
田舎と都会、漫画と絵画、義理と夢の間にゆれながら、過ぎてゆく時間。そして、その間に取り返しのつかない何かが進行していることを読者は予感しながらも、若い日の作者は知らぬままに過ごしてゆく。
そして、ある一点に向けて、物語は疾走し続ける。そのとき、読者の涙腺は決壊することだろう。
これほど痛切な師弟の愛情のドラマが、コミックによって描かれたことがあっただろうか。
『かくかくしかじか』は、人が一生に一度きり描くことが可能な一期一会の出会いの物語、青春時代へのレクイエムであり、東村アキコの最高傑作である。