つぶやきコミューン

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東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略 ver.1.01

 

 

『ゲンロン』の創刊準備号として計画されながら、『ゲンロン1』〜『ゲンロン4』の後に刊行された『ゲンロン0』は、「観光客の哲学」のタイトルを持った東浩紀の単著である。「観光客」の概念は、すでに『弱いつながり』において提示されており、また『ゲンロン』の前身である『思想地図β』の『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』や『福島第一原発観光地化計画 思想地図β4-2』の中でも実践的に試みられたことがあるが、その概念の思想的位置づけが深化されたかたちで、体系的に語られるのはこれがはじめてである。


以下前半の内容を超訳的に抽出してゆきたい。『ゲンロン0 観光客の哲学』は二部に分かれ、第1部が観光客の哲学、第2部が家族の哲学(序論)となっている。第2部の家族の哲学は、第1部の観光客の哲学を補完するものと位置づけられ、「第5章 家族」「第6章 不気味なもの」「第7章 ドストエフスキー最後の主体」の3つが、独立したエッセイに近い形で収録されている。単純化するため、この記事では、第1部の観光客の哲学のみにフォーカスする。第1部は「第1章 観光」「付録 二次創作」「第2章 政治とその外部」「第3章 二層構造」「第4章 郵便的マルチチュードへ」からなっている。

 

本書の要旨をまとめることは難しくないし、誰にでもできることである。それは要所要所で著者が、それまでの経過を要約し、言葉を選びながらパラフレーズを行っているからで、読者である私たちの頭が急によくなったわけではない。本書で登場する本を何冊か読んだことがある人も、自分で直接原典にあたったときよりも、ずっとその本がわかったという気にさせられたはずである。『ゲンロン0』の読みやすさは、なるべく漢字を開きひらがな書きを増やす表記上の努力、写真と白紙を章と章の間に踊り場的にはさんだり、注釈を末尾ではなく同じページの下の段にまとめるレイアウト的努力、複数の思想家についての記述のページ数をそろえる量的調整の努力なども無視できないが、何よりも東の卓越した要約力と、要約的断章を随所に挿入しながら一歩ずつ議論を進めてゆく構成上の工夫によるところが大きいのである。

 

グローバリズムと、それに対する反動としてのナショナリズムの台頭の影で、リベラリズムの掲げる理念である普遍性は瓦解し、今日の世界は、かつてのような寛容性を他者に対して持てなくなりつつある。

 

そうした生きづらく居心地の悪い時代において、リベラルな思考の拠点となりうるオプションとして東は「観光客」を取り上げようとする。本書の目的は、観光客からはじまる他者の哲学を構想することなのだ。

 

観光客とは、いわば二次創作のようなものである。つまり、オリジナルを素材としながら、どのようにそこに面白みを発見し、発展されるかは自由なのである。それゆえ、二次創作同様、「ふまじめさ」、無責任さによって特徴づけられる。

 

 両者に共通するのは無責任さである。観光客は住民に責任を負わない。同じように二次創作者も原作に責任を負わない。観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して帰っていく。二次創作者もまた、原作者の意図や苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。

pp45-46(強調…原文は傍点)

 

観光は、日本におけるインバウンド消費の急激な増加が示すように、地球上を覆い尽くす勢いで、発展しつつある。だが、観光についての議論は、実学中心で、まともに掘り下げて語られたことがない。その意味を明らかにするため、東は思想史的な回り道を行おうとする。

 

観光が成立するようになったのは、19世紀のヨーロッパであった。それに先立つ18世紀末の啓蒙思想の中に東はその萌芽を認める。

 

『カンディード』の中で、ヴォルテールは「最善説」を批判するために、世界は誤りに満ちていることを示そうとした。これは実際の旅に基づいたものではなく、思考実験としての旅行であったが、世界には想像できないような悲惨な現実があることを示そうとするダークツーリズムの先駆でもある。

 

同時代人のディドロ『ブーガンヴィル航海記補遺』の中にも、「タヒチ人」によってヨーロッパの風俗・習慣を相対化するなど脱ヨーロッパ的普遍性への志向が見られ、その系譜はそのままレヴィ=ストロースへと連なる。

 

さらに、カントは『永遠の平和のために』の中で、永遠の平和実現のためには、人々の自由な移動が前提とされることが必要であるとした。観光的な人々の移動の中に利己心や商業までもが含意され、観光の哲学の祖型を見ることができる。

 

これに対し、20世紀の思想家、カール・シュミットは『政治的なものの概念』の中で、政治の条件として、友と敵の峻別を必須のものとしたのである。このシュミットの発想は、弁証法的発展の中に人間の成熟を見るヘーゲルにつらなるものだが、このようなシュミットの立場からすれば、政治そのものを抹消してしまうグローバリズムは到底容認できるものではなかった。

 

アレクサンドル・コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』の中で、誇りを失い、他人の承認ももとめず、与えられた環境に自足する第二次大戦後の「ポスト歴史」の世界の典型として、アメリカの消費者を「動物」と呼んだのであった。

 

さらに、シュミットとは対極の位置に立つハンナ・アーレントも、『人間の条件』の中で、「活動」と「労働」を区別し、行為の固有名性のない「労働」を、人間の条件を欠いた「動物」的なものと考えたのである。

 

シュミットもコジェーヴもアーレントも、十九世紀から二〇世紀にかけての大きな社会変化のなかで、あらためて人間とはなにかを問うた思想家である。そこでシュミットは友と敵の境界を引き政治を行うものこそが人間だと答え、コジェーヴは他者の承認を賭けて闘争するものが人間だと答え、アーレントは広場で議論し公共をつくるものこそが人間だと答えた。p108

 

実は、「観光客」には、彼らが「人間ならざるもの」として排除しようとしたすべての要件がそろっていると東は言う。

 

それはモダンな「人間」観、政治から排除されるべき異物、他者である。

 

観光客は大衆である。労働者であり消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ敵もつくらない。そこには、シュミットとコジェーヴとアーレントが「人間ではないもの」として思想の外部に弾き飛ばそうとした、ほぼすべての性格が集っている。観光客はまさに、二〇世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、二〇世紀の思想の限界は乗り越えられる。pp111-112

 

これに続く「第三章 二層構造」の「二層構造」とは、動物化するグローバリズムと人間化を求めるナショナリズムが重なり合いながら、異なる価値観によってせめぎ合う状態をさしている。その状態は、経済という下半身はつながりながら、政治という上半身はつながらない、いわば不純な愛の状態である。

 

 二一世紀の世界は、人間が人間として生きるナショナリズムの層と、人間が動物としてしか生きることのできないグローバリズムの層、そのふたつの層がたがいに独立したまま重なりあった世界だと考えることができる。この世界像のうえであらためて定義すれば、本書が構想する観光客の哲学なるものは、グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路がないか、市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもうひとつの回路はないか、その可能性を探る企てである。p127 (強調…原文は傍点)

 

観光客は、このような二重構造の時代において、「動物の層から人間の層へつながる横断の回路、すなわち、市民が市民として市民社会の層にとどまったまま、そのままで公共と普遍につながる回路」(p144)として位置づけられる。

 

それを一層明確にする上で、参照されるのがネグリハートのマルチチュードであり、ドゥルーズ=ガタリのリゾームの概念である。

 

マルチチュードの誤りは、内容なき連帯である。それは一時の盛り上がりを見せても、継続的に政治を変えてゆくはたらきを持たないことはアラブの春の後の歴史を見ても明らかである。

 

ネグリとハートの否定神学的なマルチチュードを、誤配性を含んだ郵便的マルチチュードへと置き換えながら、新しい時代の要請に合致したものへと練り上げることに「第4章 郵便的マルチチュード」は充てられる。

 

そして観光客こそは、その郵便的マルチチュードであるというのだ。

 

マルチチュードやリゾームが、具体性を欠いたイメージにすぎないものと批判しながら、東が次に参照するのはストロガッツの「スモールワールド」とバラバシアルバートの「スケールフリー」というネットワーク理論である。

 

スモールワールドグラフによって、人間の関係のネットワークをモデルとして可視化しながら、近隣の人とのみ関わる格子グラフに、わずかな「つなぎかえ」を加えることで、最大距離や平均距離が大幅に短縮されることが明らかになる。このつなぎかえ、ショートカットこそ、観光客に相当する。

 

スケールフリーは、規模にかかわらず、同じ分布をとるというものでたとえばウェブページの被リンク数などに適用可能な理論である。スケールフリーの分布は、統計学でいう「べき乗分布」に属するが、それによりネットワークの変化をシュミレーションすることも可能である。

 

これらの数学的モデルと接合することによって、東はネグリのいう「帝国」も、国民国家も、郵便的マルチチュードも実体であり、否定神学的マルチチュードやリゾームという単なるイメージとは別の、計量可能な次元で、観光客の哲学を議論することが可能だと考えるのである。

 

ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』において、公的なふるまいと私的な信念との分裂を、アイロニーによって解消し、さらに連帯の可能性を模索したが、その哲学の中に、『弱いつながり』ですでに提示された「憐れみ」の誤配に相当するものを東は見つけだす。

 

  たまたま目のまえに苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくそのひとに声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、「われわれ」の基礎であり、社会の基礎なのだとローティは言おうとしている。これはまさに、つなぎかえがスモールワールドグラフを作った、あの誤配の作用そのものなのではなかろうか。pp197-198

 

『ゲンロン0 観光客の哲学』において、東浩紀は、思想や抵抗の拠点としての「観光客」の概念のみならず、その思想史的な意味と、計量的な数学モデルによって語る道をも同時に提示している。それは批評が、一つの視座によって、思想的な言語を語りつつ、同時に現実を語ることが可能であり、一見救いの見えないこの世界にも、理性や知性による希望の光がまだ存在することを意味するものにほかならない。

 

参照リンク:

このすがすがしい哲学書は東浩紀の技術の集積である 東浩紀よ、どこへ行く(cakes)

 

関連ページ:

小林よしのり・宮台真司・東浩紀『戦争する国の道徳』
東浩紀『弱いつながり』 
東浩紀・桜坂洋『キャラクターズ』
東浩紀『セカイからもっと近くに』
東浩紀『クリュセの魚』
東浩紀編『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(1) (2)  (3) (4)

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