つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< May 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
 
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
朝日新聞の堀江貴文著『ゼロ』の書評を解読する



1.新聞話法と書評

12月22日(日)版の朝日新聞での堀江貴文『ゼロ なにもない自分に小さなイチをたしていく』(ダイヤモンド社)の書評が話題になっている。

ある本が出たとき、それに賛否両論はあるのは当然だ。『ゼロ』の場合でも、自己啓発書一般に対する批判、「やればできる」精神に対する批判なども当然出てくるであろう。どんなに本を読んでも、自分はできるようにならない人が世の大勢を占める。そうした意見を知り尽くした上で、本では人生が変わらないと前置きしながらもあえて掘江氏は『ゼロ』を書いているのだ。

しかし、この朝日新聞の書評はそのような類のものではない。そして、そこには多くの人を不快にさせる何かがある。それは、何だろうか。同時に、意味不明、理解不能との声もある。新聞には、「天声人語」や一部の社説などもそうだが、独自の言い方がある。どこかしら上から目線で、韜晦(とうかい)的で、最後は何となく落としたような印象もあるが、キツネにつままれたようでわけがわからない。この類の文章を、「新聞話法」と読ぶことにする。

この「新聞話法」のからくりを明らかにするのがこの文章の狙いである。

あらかじめお断りしておくが、新聞に出てくる書評がすべて悪いわけではない。プロの作家や批評家が寄せた書評には素晴らしいものも多く、ツイッターなどでフォローしている著者の本の書評が掲載されれば、私もその日の新聞を買うことがよくある。このような優れた書評に共通しているのは、たとえ辛口であろうと、著者や本に対するリスペクトや愛があることだ。そうした気持ちが持てないなら、書評など書くべきではないし、スルーすべきである。しかし、メディアにはただ売れて話題になっているので、目につくコンテンツをつくるため、愛もリスペクトもない人が書く「あやかり書評」というものが存在する。『ゼロ』に関するこの書評はその種の書評に属している。

さて、メディアで発表されるようなプロの書評には、大きく分けて四つの手法がある。
1)評伝型 交友のある人間が、読者の知らないエピソードをまじえながら本を紹介する。水道橋博士の文章を思い浮かべればわかりやすいだろう。エンタメとして面白いが、ともすれば本の内容が二の次になりがちなのが難点だ。
2)テーマ型 特定の分野で知識や経験の豊富な人間が、その座標軸の中に紹介する本を位置づける。たとえば常見陽平氏なら就活や労働問題、速水健朗氏なら食べ物の歴史といった具合だ。この場合も、テーマとなる社会問題と本の内容の主客が転倒しないためには、評者の節度が必要だ。
3)著者研究型 デビュー以来の著作から前作までの流れを踏まえた上で、著者の変化の流れを追うもの。このためには、すべてでなくとも、著者の本のめぼしいものには目を通しておく必要がある。

さて、著者との交流もなく、内容に関連する特定分野の博識な知識も持たず、同じ著者の多くの著作もろくに読んできていない場合、どうしたらいいのか。制限字数に合わせ、内容の一部もしくは全体のキュレーションに終始すればいいと思うのだが、メディアの世界ではそれではプロの仕事とみなされないらしい。ここで登場するのが、第四のタイプ、レトリック型、別名一発芸型である。

4)レトリック型、別名一発芸型は、いわば一般読者と変わらない知識量で、自分を上に置き、かさ上げして見せる技術、大したことのない内容を気の利いた風に見せかける技術である。最初にあるレトリック(修辞)を仕掛け、そのオチを最後に作る。言葉の一発芸に、命を賭けるのである。

朝日新聞の『ゼロ』の書評は、この第四のタイプ、レトリック型、別名一発芸型に属している。

2.「微妙だなあ」の心理学

朝日新聞の編集委員であるS氏(本論の趣旨はS氏個人をたたきその悪名を高めることでも、逆に焼け太りで有名にし、フォロワー数を増やすことでもないのでこう表記する)による『ゼロ』の書評は最後の「微妙だなあ」に至るまでの13の文からなっている。その中には、S氏の微妙な心理が見え隠れしている。それを逐次解読・解説してゆきたい。

 「ホリエモン」は「ドラえもん」を連想させる。

上で述べたレトリック型の仕掛けである。しかし、この文には一種の詐術がある。「連想させる」の部分だ。もともと、誰かが「ドラえもん」をもじり、ホリエモンと名づけたのである。
それをあたかも自分が思いついたかのように言うのはフェアではない。しかし、自分が考え出したわけでもないからそのアンフェアさは、直接責を負うことがない。新聞の「〜が明らかになった」というフォームに関し上杉隆氏が指摘するように、肝心な言葉はいつも天からテレパシーのように響いてくるのである。この文章では一度も「私」や「僕」のような一人称単数代名詞は出てこないことに注意しよう。この一文のレトリックの上に、書評全体が構成されてゆくのである。

以前は丸っこい体形も似ていた。

この文には、90キロ超から65キロまでスマートにダイエットし、現在の堀江氏の体形にツッコミを入れられない悔しさがにじみ出ている。堀江氏がダイエットに成功していなければ、この人は一体何を書いたのだろうか。

 ただドラエもんがのび太の成長を図る大人ネコなのに、ホリエモンは大人の中に紛れ込んだ子どもネコ。

〜イ泙任重要な部分で、そこに著者の考え方が顕著に現れる。そのために、ドラえもんのイメージの捏造が始まる。このドラえもんの着ぐるみの中には、オッサンであるS氏が入っているということがわかれば、この文章はほぼ理解できたと言っていいだろう。「ドラエもんがのび太の成長を図る大人ネコ」と言うならそのエビデンス(明証)を示すべきだが、そんなものは出てこない。

ドラえもんがはたしてのび太の成長を図る大人だったのか。そんなことはない。ドラえもんは、のび太の言うがままに、母親の目を盗んで、孫にあれこれのグッズを与える甘やかし系のおばあちゃんみたいなものである。のび太が何かを学び、成長するとしても、それはショートカットによる失敗を経た人生のルールによるものであって、ドラえもんの意図によるものではない。

ドラえもんが無力な主人を世知で助ける、機械じかけの「長靴をはいた猫」なら、ホリエモンは主人を持たず、靴に象徴される拘束や忠誠や社会的役割を嫌う、「長靴をはかない猫」だった。

レトリックの面から言えば、この著者はプロの文章家の資格がない。「ドラえもん」を決めわざとしたなら、それで終始一貫すべきなのだが、今度は同じ類の「長靴をはいた猫」を持ってくる。浅い思考の論理に窮した場合に、このように屋上屋を重ねることになる。そして「ドラえもん」への愛情も専門的知見もないに等しい。それは、「主人」という言葉に象徴される。主人の反対とは何だろう?奴隷である。その延長上に垣間見えるのは社畜の世界である。猫の世界と人間の世界をないまぜに語るには、どのような関係が猫と人間の間に設定されているかが重要である。この人の考えでは、猫は人の愛玩物、あるいは奴隷である。そして、その延長上で語られるホリエモンとは、拘束や忠誠を受け入れ、「社会」の奴隷となるべき存在なのだ。ホリエモンが「社会的役割」を嫌うというが、果たしてそうなのか。この人の言う「社会」ー会社に務めるサラリーマンに代表される社会が、社会のすべてではないことも忘れてはならないだろう。起業し、会社をつくり、多くの従業員を雇い給料を払う人間の方が、一介のサラリーマンや物書きよりもスケール的にはずっと大きな社会的役割を果たしていると言うべきではないか。

そんな、気ままで大きな子どもネコが逮捕、取り調べ、裁判、収監という強烈すぎる通過儀礼を経て、どう変わったか。

この文章のキーワードは「大人」である。そして著者の価値観は、通過儀礼を経て、「子ども」は「大人」になるべきだというものである。しかし、その大人とは何なのか?その内容が、深く吟味されることはない。

Δらまでは、著者なりの本書の要約であり、気の利いた高校生でもできるレベルである。イケダハヤト氏は、大胆に全文を引用しているが、ここでは引用のルールである主従関係を明示するため、あえて重要でない部分はスキップし、ダイジェストで提示することにする。

Α[要約1] 「ホリエモン」から「ゼロとしての堀江貴文」宣言。
А[要約2] 以前の堀江氏とは違うとの感想。しかし、「人の心はお金で買える、女はお金についてくる」という発言は、メディアの曲解であり、真意は別のところにあるという堀江氏の主張はスルーされ、「豪語していた」と言う従来通りの過去の事実認定を行っている。
─[要約3] 家庭環境、中高時代、受験、大学時代を各10〜20字前後で要約。「シンプルな筆致で描いてある」はニュートラルな表現で、特に悪意のないものだろう。
 [要約 4] 大学時代の女性に対するうぶさの告白、結びとして「「ゼロの自分にイチを足す」ような地道な努力も説いている」としている。

 じゃあ、大人になったのか、と問われれば、どうも、そんなふうでもない。

これが著者の結論である。価値あるもの=大人、未熟で価値のないもの=子どもという図式が露骨に見えてくる。しかし、この「大人」とは、都合よく「空気を読む」社会に順応した大人たちの一部であって、大人のすべてではない。この「大人」の特徴とは、い砲△襦峽い望歡Г気譴觜澗や忠誠」や周囲の「空気を読む」狭いタコツボ社会の「社会的役割」を果たす大人である。

私は、個人の選択として「社畜」的な生き方を否定するつもりはない。社会の安定性のためには、そうした生き方をする人が大勢いてもよいし、能力的あるいはマインドセット的にも起業したり、自立したりできる人ばかりでないのは当然である。しかし、拘束や忠誠を嫌悪し、自由な世界で活躍する人々のイノベーションがなければ、社会は経済的にも文化的にも活力を失い、失速、停滞する。今の日本の現状がまさにそうである。イノベーションや起業家たちのベンチャー精神は既存の社会のやり方の否定という点で子どもじみた性質を帯びる場合もあるが、その活力がなければ、この国は沈み行くしかないだろう。

この書評が本当に痛いと思うのは、そうした現状への危機意識がみじんも感じられず、イノベーションやベンチャー精神を受容するだけの意見の多様性への受け皿がないことである。「クールジャパン」に代表される、原因を潰しながら結果だけおいしい分け前にありつこうとする、官民を問わない今の日本のいやらしさが如実に現れているが、このええとこどりはっきり言ってムリゲーである。そうした意見が、日本の比較的リベラルな部分を代表してきたと思われている朝日新聞の一面を堂々と飾っているところに、この国の救いようのなさがある。

 [要約5] 最終章の要約としてあげられているのは堀江氏のポジティブな未来観だが、イノベーションに無関心な筆者は、それよりも堀江氏の「オヤジ化することへの嫌悪があらわ」であることがよほど気にかかるらしい。しかし、イノベーションとオヤジ化の拒絶は、後に見るように深い相関関係にある。

「長靴をはかない猫」ホリエモンの着ぐるみを脱いだら、出てきたのは裸足の少年ホリエ。

この言葉は、ブーメランとなって筆者のS氏のもとに戻ってくるだろう。捏造された偽のドラえもんの着ぐるみを脱いだら、靴に象徴される拘束や忠誠やローカルな社会にがんじがらめになり、オヤジ化した筆者が出てくる。この書評は、『ゼロ』の本質については何も語らず、著者の心の肖像を浮き彫りにするのみである。

 微妙だなあ。

この「微妙だなあ」が何を意味するかは、ここまで読んできた読者には明らかであろう。全文の論旨にそって要約すると次のようになる。
 
「ホリエモン」という社会的虚構を外し、『ゼロ』で提示された素顔の堀江貴文像は、筆者の期待に反して、靴に象徴される拘束や忠誠心を受け入れる自分たちの側に立つものではなく、相変わらず「大人げない大人」のままで、オヤジ化した自分をいささかも擁護してくれる気配がない。そのことが実に残念である。

これだけのことを言うのに、ホリエモンとドラえもんの対比だの、「長靴をはいた猫」だのを出す必要はまったくないのだが、なるべく言いたいことを、遠まわしにわかりにくく、しかも上から目線で表現して恥じることがないのが、新聞話法というものである。この書評の本質は、偽のドラえもんの着ぐるみに隠れたオヤジ化した筆者のポジショントークにすぎない。だが、それがこれだけ人を不快にさせるのは、世界の変化というニーズに対応できず、ジリ貧の状態に陥りながら、しかも新しい時代の萌芽を「空気を読む」大人社会の掟に逆らうものとして、排撃しようとする度量の狭さであり、一層加速される「日本病」の根源たる社会集団の無意識の声を代表しているからである。そして、それこそが、この国で人々をーとりわけ若者をー一層生きにくくしているものの正体だからである。

3.大人げない大人になれ!−『ゼロ』の新しさとは?ー

朝日新聞の書評の解説は基本的に以上で終わりなので、この書評の炎上問題にのみ興味がある人は、以下は読む必要がない。あえて、これを付加するのは、悪くなった気分をポジティブに切りかえるという口直し的な意味である。堀江氏も繰り返し述べているが、ルサンチマン(怨恨)は引きずるに値しないつまらない感情である。

ライブドア事件の前も、収監後も大人げない大人であり続ける堀江貴文氏が、『ゼロ』の出版を通じて、行ったことは以下の三つである。

 ,修譴泙埜躄鬚鮠靴い討睚置しておいたものを、放置せずに言葉を尽くして語ること。

誤解が積み重なったネガティブなイメージによって既存社会の反発を受け、四十歳前後という人生のおいしい時期を、社会から隔絶した場所で過ごすこととなったことは痛い。だから、やってることそのものではなく、それが引き起こす誤解によるリスクを最小化しようということである。

◆,修譴泙納分の中では当たり前であると考え、人にとっては価値のないものと考えてきたことを、あえて他人の視点で見直し(自己相対化し)、伝え直してみること。

わかりやすく言えば、このくらいやるの当たり前だと思ってたけど、みんな全然やってねーじゃん、それじゃ成功するわけねーよ。みんながそれを努力って言うんなら、オレ自分では努力してないと思ってたけど、努力してきたよ。うん、じゃ、オレ努力家ってことで。

これがゼロの自分に足すイチの真意である。Q&Aを見ればわかるように、かつても今も堀江氏はドラえもん同様に、読者やファンのリクエストに合わせ、ほとんど無料同然で、様々なビジネス成功のためのアイディアやヒントを惜しげもなく提供し続けてきた。素顔の堀江貴文になった今もそれは変わらない。だから四次元ポケットを持つホリエモンは健在である。しかし、変化した面があるというなら、のび太に自助努力の大切さを説くドラえもんとなったことである。『ゼロ』の中で堀江氏が言う掛け算とは、タケコプターやどこでもドアのようなアイテムであり、現実界ではネットやSNSの活用などがそれに相当する。それを使うのはいい。しかし、最初の一歩は自分で踏み出さなければ永遠に成功はおぼつかない。

 できるだけ多くの人にメッセージを伝えようと、本の前半を無料でネット上で公開したり、全国の書店をめぐりサイン会や講演会を開きながら百万部を売るという目標達成に努めること。

大きなメディアによって一方的に伝えられた情報の修正は容易ではない。堀江氏のツイッターでは、初めて堀江氏の本を読んで感動したとか、メディアによって捻じ曲がったイメージをうのみにしていたがそれが誤解であるとわかったとの新鮮な感想が寄せられ、堀江氏自身によってRTされている。大新聞の公称発行部数は数百万部に上る。ツイッターで百万のフォロワーがあっても、日本人全体の百分の一にも満たないし、それも世代的に大きな偏りがある。ネットとは無縁で、毎日家に届く新聞を読み、テレビしか見ない老人世代には、どんなにつぶやこうとまったく届かないのだ。多くの人にメッセージを届け、流れを変えないと、この社会を変えることはできないということを堀江氏は嫌というほど学んだのだ。

朝日新聞の書評には、今の既得権益にしがみついた層の「大人げない大人」やイノベーションをもたらす層への嫌悪がありありだが、そうした「大人げない大人」の社会における必要性と生き方のススメを説いたのが、堀江氏の共著者の一人でもある成毛眞氏の『大人げない大人になれ!』(ダイヤモンド社)である。その一節を紹介して、この文章の結びとしたい。

重要なのは、「大人げない大人」がなぜ必要なのかを成毛氏は、科学やテクノロジーの進化と不可分であると指摘している点である。
 
 人間は、実験に基づく科学的方法を確立して以来、それ以前とは別次元のスピードで、知の蓄積と継承を進めてきた。こうした知の生産は、人間の長い学習期間に支えられているのだ。たとえば、私たちがわずか10歳たらずで、通常の人間の50歳に相当する程度まで学習能力や記憶力が低下するような動物であったら、現代の複雑な学問には対応できないはずである。
 そして今後も、私たちが新たな発見を継承し、知識を積み上げていくのであれば、さらにこの学習期間を長くする努力をしなければならないだろう。これまでに得た、わずかばかりの知識や知恵に満足してはならないのである。
 子供のように、好奇心や柔軟性、何かを学ぶことへの意欲を保持することが必要だ。
 しかし現実では、人は社会生活を営む中で、大人として成熟していくことを目指している。大学を卒業すればもう一人前で、あらかたの知識を得たのだと錯覚することさえあるかもしれない。そういった人は変化を拒み、知らないことへの嫌悪感すら持ち始めるのだ。
pp55-56

『大人げない大人になれ!』は2009年に出版された本だが、成毛氏の文章の優れた点は、なぜ、評者が『ゼロ』に対し、あのような意見を述べるに至ったかもすでに説明していることである。評者のS氏は、自らが変化したくないために、堀江氏が変化することを望んだのである。大人げある大人が恐れるのは変化そのものである。個人もメディアも変化をしないでは生き延びることが出来ない時代なのに、変化を突きつける人を嫌悪し、変化しない人間同士で結託し、排除しようとする。だが、その構造が蔓延した社会に未来はない。
 
 ネオテニーに関する鋭い考察を残したJ・B・ホールデンは、次のように述べている。”もし人類進化が過去と同じ方向に継続するなら、未来の超人間の成長は、われわれよりも遅く、教育されうる期間も延長されるだろう。彼等は、われわれの多くが幼児の間に失ってしまう特徴を、成人まで保持するであろう。うすぐらい監獄ですら、彼等をじっとさせておくことはできないであろう。彼等はわれわれより多分賢いが、落ち着きや厳しさに欠けるところがあるだろう”
 大人になるということは、自ら成長の歩を緩めてしまうことになりかねないのである。こうならないためには、どうすればよいか。すでに繰り返し触れているが、大人げなさこそに、そのヒントがある。
p57

「うすぐらい監獄ですら、彼等をじっとさせておくことはできないであろう」という言葉が突き刺さる。監獄の中で千冊の本を読み、メルマガを休むことなく出し続けた堀江貴文氏は、このような超人間の一人と言っても過言ではない。堀江氏が「大人げない大人」であり続けることこそ、日本の希望である。

『大人げない大人になれ!』では、コミュニケーションにおいて、わかりやすく話すことの重要性も強調されている。冒頭で取り上げた新聞話法のような書き方ではなく、堀江氏の『ゼロ』のような平易な言葉づかいこそ、価値があるのだ。あの「シンプルな筆致」は、稚拙さではない。ものすごく頭のいい人が、多くの人に伝わるようにと、苦労して言葉を選んだ結果なのである。
 
 難しい言葉を使って形式的に話すことで、自分を賢いように見せるのは誰にでもできることである。この簡単なテクニックを使う人は、ビジネスの世界に驚くほど多い。しかし、それでは人を説得することはできないし、ましてや人を惹きつけるようなことは決してない。これができるのは、子供のように簡単な言葉を使って、自分の考えと感情をストレートに表現できる大人げない大人のはずである。p97



関連ページ:
堀江貴文『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』
堀江貴文『ネットがつながらなかったので仕方なく1000冊本を読んで考えた…』(成毛眞氏との対談所収)

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.