つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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鴻巣友季子『100分 de 名著 マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」』

 文中敬称略

 

 

『風と共に去りぬ』というと、ヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブル主演ヴィクター・フレミング監督のハリウッド映画があまりにも有名である。要所要所で「タラのテーマ」が繰り返される中、広大な南部の自然、歴史の激動を背景に、「自由な」女スカーレット・オハラとちょい悪キザ男のレッド・バトラーを中心に繰り広げられるドラマチックなメロドラマ、そんなイメージ。

 

だが、その中には、原作とは異なる設定も、原作者が望まないような設定も多く含まれる。

 

たとえばスカーレットの容姿。
 

  実際、小説ではどんな容姿だと書いてあるのか。第一巻の一行目はこう書き出されています。「スカーレット・オハラは実のところ美人ではなかったが」。驚きですね。p21

 

本文中の特徴を抜きだしたスカーレットのイメージは、ヴィヴィアン・リーとは別の女性のものである。

 

  まとめてみると、背は低めで、つり目。エラ張り、首は短くふくよか、腕はむっちりしていて、バストは年齢にしては並外れて大きいがウエストは恐ろしく細くて、美脚。おそらく正統派美人というよりは、コンパクトグラマーで、ちょっとファニーフェイス気味の魅力的な女の子、というところだと思います。p22

 

そしてスカーレットの故郷であるタラの家。

 

 映画と原作でもう一つ大きく違うのは、スカーレットの実家<タラ>の外観です。映画のそれは、建物の前面に立派な支柱が四本立つギリシア復興様式的な邸宅ですが、実はこれは、ミッチェルが「頼むからこういう豪邸は絶対つくらないでください」とさんざん頼んだものそのままなのです。ミッチェルは、スクリーンで初めてこれを見たときは「死ぬほどショックだった」と言っています。p23

 

マーガレット・ミッチェル原作の『風と共に去りぬ』の原作とはどのようなものだったのか。それは一般に考えられているような田舎の文学少女によって描かれた大衆文学なのか。単に映画のイメージを修正するだけでなく、これまで語られることのなかった『風と共に去りぬ』に秘められた豊かな言語の世界を再発見する試みが、翻訳者鴻巣友季子『100分 de 名著 マーガレット・ミッチェル 風と共に去りぬ』(NHK放送出版)である。

 

國分功一郎の『00分 de 名著 スピノザ「エチカ」』同様、本書は4回にわたるNHKのテレビ講座のテキストだが、そこには伊集院光や安倍知みち子といった他の出演者との掛け合いなどは含まれず、あくまで鴻巣による書き下ろしのテキストである。大まかな流れや、トピックに関しては共通しているが、異なる構成とディテールを持っており、独立した一冊の本として読むことができる。

 

「第1回 一筋縄ではいかない物語」では、まずミッチェルの生い立ちと『風と共に去りぬ』執筆に至るまでの経緯が語られる。とりわけ「完璧なレディ」と言われた母メアリー・イザベルの存在が重要だ。

 

  娘が野球や乗馬で男の子たちを負かすのを喜んだり、新しい時代の強いサバイバーになってほしいと自ら銃の撃ち方をみっちり仕込んだりする一方、幼い頃から娘をお作法教室やバレエ・レッスンに通わせ、上品な「南部の貴婦人サザン・ベル」となるべく、小さなレディとして振る舞うことを強いました。つまり、男性的な面と女性的な面の両方を娘に求めたのです。p16

 

この母親の影響は、『風と共に去りぬ』の登場人物にも影を落とす。それは、スカーレット・オハラだけではないのである。

 

マーゲレット・ミッチェルは、時代的にはアーネスト・ヘミングウェイや、スコット・フィッツジェラルドとも同時代でありながら、当時の文学の世界を席巻していた、マルセル・プルーストやジェームズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフといったモダニズムの「意識の流れ」の潮流に抗して、この作品の文体を練り上げたことがミッチェルの手紙を引用しながら語られる。

 

 『風と共に去りぬ』の一気呵成に読ませる文体は、アマチュア作家の若書きだと思われてしまいがちですが、この手紙からは、ミッチェルが自覚的にモダニズムに背を向け、高度な文体戦略を持ってこの作品を書き上げたことがうかがえます。p14

 

さらに原作のあらすじや、登場する人物のキャラクターについて、相互の関係性の中で、詳しい解説が行われる。中でも「似た者同士」という関係性は、最大のキーワードとなる。

 

 実は、スカーレット、アシュリ、メラニー、そしてレットという主役の四人は、それぞれが似た者同士であり、互いの分身であるような関係になっています。p26

 

日本の漫画やアニメに登場する「萌え」や、「どS男子」の原点に、『風と共に去りぬ』があるとする鴻巣の指摘は、新鮮で目から鱗が落ちまくる展開である。

 

「第2回 アメリカの光と影」では、特に南北戦争にフォーカスしながら、マーガレット・ミッチェルの戦争に対する態度や、南北戦争をめぐってしだいに強いものとなる、スカーレットともう一人のヒロインメラニーとの絆などが語られる。

 

特に面白いのは、母親のエレンとレット・バトラーをスカーレットの二人の庇護者(「二人の母親」)と位置づけるところである。

 

またこの回には、南北戦争の詳しい解説が行われるが、物語内の出来事を、歴史的な出来事の中に挿入した略年譜も、素晴らしい。

 

なぜスカーレットは二人の保護者を失い、自立しなければならなかったのか。大きな社会の変化とともにこの物語の紆余曲折を理解する方法が語られる。


強調される土地との絆。『風と共に去りぬ』というタイトルに込められた謎もここで解き明かされるのである。

 

「第3回 運命に立ち向かう女」では、性悪女であるスカーレットがなぜ嫌われないのか、マーガレット・ミッチェルの文体のマジックが語られる。

 

三人称で語りながらも実は人物の内面の動きを語る自由間接話法や、内的独白である自由直接話法を駆使しながら、ミッチェルは人物への共感と批評を交互に滑り込ませている。それを鴻巣は「ボケとツッコミ文体」と名づけている。

 

 ミッチェルは、地の文に溶け込むこれらの話法を駆使し、スカーレットに味方する(ボケ)、かと思うといきなり辛辣な指摘を滑り込ませてきたり、スカーレットの腹黒い心中を暴き出して批判したりします(ツッコミ)。pp76-77

 

物語の進行とともにより際立ってくるスカーレットやメラニーを通じて描かれる女性像と同時に、物語の中でミッチェルが行った南部社会の批判についても解説される。

 

 女が事業家として成功したということで、街にはやっかみや反感が渦巻きます。しかし、スカーレットはそうした圧力には全く屈しません。昔から人と足並がそろわないことには慣れていますから、わが道を行くことを貫き通します。

 ここから一歩拡げて、彼女が全体主義に対して強烈な猜疑心を持っていることにも触れておきましょう。これは反戦思想にもつながるもので、この小説の中でスカーレットというキャラクターが担う重要なポイントになっています。p85

 

そして「第4回 すれ違う愛」では、物語の後半でのスカーレットとレット、そして共通の友人であるメラニーとの錯綜した関係の変容について、切れ者の探偵のような目で、解説が行われる。

 

けれども、最後の場面まで解説があまりに行き届きすぎているがゆえに、ひと言。第三回まで読んだ人は、第四回を読み終える前に、もしも未読であるなら、『風と共に去りぬ』を読み始め、できることなら読み終えてしまった方がよいということである。


    

                              

やはり、結末に至る道筋は、まず自分の目で確認し、数々の疑問を胸に悶々とするにこしたことはない。

 

『100分 de 名著 マーガレット・ミッチェル 風と共に去りぬ』は、コンパクトな中にも、原作のエッセンスと必要な予備知識を完備した、ファンを一層の深みに引きずり込み、食わず嫌いの読書家の見方をも一変させる最強のガイドブックであるが、その最大の欠点は、最初の一行から最後の一行まで、物語の隅々まで至れり尽くせりであるがゆえの、限りなく透明に近いネタバレ、取り扱い注意本ということである。

 

 

 

PS

1.さらに『風と共に去りぬ』の謎を解き明かしたい人は、鴻巣友季子『謎とき『風と共に去りぬ:矛盾と葛藤にみちた世界文学 (新潮選書)を。

2.ミッチェルの原文に触れ、英語力に磨きをかけたい人は、鴻巣友季子『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ちくまプリマ―新書)がお勧め。最後の第10章がマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』ーーー心の声を訳すと、「ボケとツッコミの構造」がわかるとなっている。

國分功一郎「100分de名著 スピノザ 『エチカ』」

 文中敬称略

 

 

「100分で名著 スピノザ 『エチカ』」(NHK出版)は、NHK(Eテレ)のテレビ番組「100分で名著」のテキストですが、「哲子の部屋」の単行本のような対話の収録形式ではなく、講師である國分功一郎の書き下ろしのかたちをとった哲学書となっています。

 

放送を見る、見ないにかかわらず、単独で読み、スピノザの主著である『エチカ』とスピノザの生涯を理解できる構成となっているのです。

 

哲学を一般向けにわかりやすく解説する場合、実は語りやすい哲学者とそうでない哲学者があります。

 

たとえばニーチェやサルトルなど実存主義の哲学は、人生論的に理解できるので、理解しやすい哲学でしょう。

プラトンも、対話の中で、具体例をたっぷりに、真や美など基本的な価値について議論しているわかりやすい哲学に入るでしょう。

ルソーのような社会哲学も、教育にせよ、土地所有の話にせよ、具体的な場面が思い浮かぶ中で賛否が争われる、わかりやすい哲学です。

 

その中で、わかりにくい、あるいは説明しにくい哲学者の一人として、スピノザがあげられます。

 

同時代のデカルトが、ゴギト・エルゴ・スム(われ思うゆえにわれあり)というとても記憶しやすい物語とともに紹介され、わかりやすい哲学の一人とされているのに対し、スピノザは、難解な哲学と扱われがちです。

 

スピノザの哲学は、デカルトと同じいくつもの言葉を使っていても、まったく異なった用法で、用いているのです。

 

 スピノザは近代哲学の成果を十分に吸収しつつも、その後近代が向かっていった別の方向を向きながら思索していたからです。やや象徴的に、スピノザの哲学は、「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示す哲学であると言うことができます。

 そのようにとらえる時、スピノザを読むことは、いま私たちが当たり前だと思っている物事や考え方が、決して当たり前ではないこと、別のあり方や考え方も充分にありうることを知る大きなきっかけとなるはずです。

p6

 

デカルトの主体の概念は、「近代」の基礎となった概念ですが、スピノザは意志に行動が従属するようなものとして、主体を考えませんでした。力の有無によって、能動と受動がわかれるような場として主体を考えたのです。また、神についても、スピノザが抱いたのは、わたしたち人間を含めて、世界全体に遍在するシステムとしての神の概念でした。

 

デカルトと互換可能な哲学ではなく、同時代でありながら、一種パラレルワールドをかたちづくっていたのがスピノザの哲学なのです。

 

それを國分功一郎は、OSの違いにたとえます。

 

ーーーたくさんの哲学者がいて、たくさんの哲学がある。それらをそれぞれ、スマホやパソコンのアプリ(アプリケーション)として考えることができる。ある哲学を勉強して理解すれば、すなわち、そのアプリにあなたたちの頭の中に入れれば、それが動いていろいろなことを教えてくれる。ところが、スピノザ哲学の場合はうまくそうならない。なぜかというと、スピノザの場合、OS(オペレーション・システム)が違うからだ。頭の中でスピノザ哲学を茶道させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない…。

「ありえたかもしれない、もう一つの近代」と言う時、私が思い描いているのは、このようなアプリの違いではない、OSの違いです。スピノザを理解するには、考えを変えるのではなくて、考え方を変える必要があるのです。p7

 

もっとわかりやすく言いかえるなら、デカルト哲学がWindowsであるとすれば、スピノザはThink differentを可能にするAppleのOSです。

 

スピノザは、一切の欺瞞なく、透徹した知性によって、人間の内と外、宇宙を、自然を、世界を、一つの原理によって説明しようとした天才でした。その神の概念を、自然や宇宙に置き換えてみれば、今日でも何の違和感をなく、自分の内外の出来事を説明できるように書かれています。その先進性ゆえに、彼は教会から破門され、テロリストによって襲撃されたり、死後出版された著書も禁書になったりとさまざまな迫害を受けてきたのでした。

 

このテキストの中で、國分功一郎は、善悪、本質、自由、真理の四つの基本概念を説明することで、スピノザの哲学の概要を紹介してゆきます。ベント―(ポルトガル語)・バールーフ(ヘブライ語)・ベネディクトゥス(ラテン語)という三つのファーストネームのそれぞれの中に、スピノザの人生の異なる面を見出すつかみも最高です。

 

スピノザを読んだことのない人は、その世界の新鮮さに驚くはずです。そして、すでにスピノザの著書に接したことがある人は、長年の疑問が解消したり、半分わかったように思っていた概念の誤解に気がついたりすることでしょう。そして、それまでばらばらだった知識が、一つのまとまった絵となって浮かび上がってくるのを感じるはずです。

 

「100分 de 名著 スピノザ エチカ」は、(著者の近著『中動態の世界』の成果まで踏まえた)現代的な視点で、中学生にもわかる平易な言葉で、スピノザの哲学の核心部分を100ページほどでわかりやすく語った小さな名著なのです。

 

  Kindle版

 

関連ページ:

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』
國分功一郎『民主主義を直感するために』
・國分功一郎監修『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」 2(A〜F)
國分功一郎『近代政治哲学』
國分功一郎監修『哲子の部屋 供
國分功一郎監修『哲子の部屋 機
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(1) (2)
國分功一郎『哲学の先生と話をしよう』
國分功一郎『来るべき民主主義』
國分功一郎・古市憲寿『社会の抜け道』(1) (2)
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(1) (2)

 

千葉雅也・東浩紀『実在論化する相対主義ーーーマルクス・ガブリエルと思弁的実座論をめぐって』(ゲンロンβ28,29より)

 文中敬称略

 

 

「実在論化する相対主義ーーーマルクス・ガブリエルと思弁的実座論をめぐって」は、2018年3月25日にVOLVO STUDIO AOYAMAで行われ、ゲンロンのメルマガである「ゲンロンβ28」「ゲンロンβ29」に二回にわたって掲載された思弁的実在論をめぐる千葉雅也と東浩紀の対談である。思弁的実在論とは、認識する主体から離れて、モノが存在するという哲学的思潮であり、ポストモダン以降の哲学の流れの一つである。

 

まず2018年1月に邦訳出版されたマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないか』に対する評価よりスタートする。

 

次作への発展の余地を留保しながらも、千葉雅也は「Aさんから見た山」も「Bさんから見た山」も同じように実在するとするガブリエルの発想を、80年代のポストモダニズムの発想の域を出ていないとするのである。

 

千葉 彼自身は、ポストモダニズムを構築主義であると見なしたうえで、そこに「実在論」を導入することで構築主義を乗り越えたと主張する。しかし、その全体がかつての議論の反復のように見える。

 別の言い方をすれば、すべてのものに実在の身分を与えようという議論なんですよね。

 

そうした上で、思弁的実在論全般の特徴へと進みながら、それを現代思想の中に位置づけるのである。

 

ポストモダニズムにおける「多様性へ」というメッセージは、真理はひとそれぞれであるという「相対主義」との批判を生んだが、思弁的実在論の登場は、「ポストモダニズムの相対主義的な側面の乗り越えの動き」であると千葉雅也は語る。

 

思弁的実在論の最初の論者は、カンタン・メイヤスーである。メイヤスーは、カント以降哲学が陥った「相関主義」という袋小路から抜け出す道筋を探求する。メイヤスーの考え方の見事な要約がここにある。

 

千葉 メイヤスーは。カント以後の哲学は、世界そのものというよりも、わたしたちが世界を認識するための枠組み、すなわち思考のフレームワークばかりを研究してきたと批判します。カント的な立場では、哲学的な問いが「わたしたちにとって世界はどうあるか」という問題に限定されてしまい。それ以上は問えなくなる。メイヤスーはそのような限界を抱えたカント以降の哲学を「相関主義」と名付けます。認識の枠組みと世界が「相関」する、それが基礎になっているからです。

 メイヤスーはこの相関主義を批判し、それを突破するための「実在」を追い求める。わたしたち人間と無関係な、非人間的な、いわば無人の世界における実在に、なんらかの方法でアクセスしようと試みる。それがメイヤスーの哲学です。

 

思弁的実在論のムーブメントは、このメイヤスーの問題提起を受けて、2007年にロンドン大学で行われた「Speculative Realism」というタイトルのワークショップが行われたことに起因する。このワークショップのメンバーは、レイ・ブラシエ、メイヤスー、ハーマン、イアン・ハミルトン・グラントであった。それにともない、現代思想の中心もパリからロンドンへ移ることとなった。

 

思弁的実在論は、ポストモダニズム以降の思想的停滞を打破するものとして現れてきたことを、東浩紀も評価する。

 

とはいえ。思弁的実在論は、その担い手のハーマンや、ブランシエが辺境の大学に勤めていたり、ネットで拡散したりするなど、マイナーな流れであり、ポストモダニズムの再来を期待することは困難だろう。

 

千葉 つまり、思弁的実在論は、そもそもが哲学の主流からドロップアウトしてしまった現代思想から、さらにドロップアウトしているわけです。

 

メイヤスーが相関主義批判によって主張したいのは、実は唯物論であると千葉は言う。

 

千葉 メイヤスーは「真の実在」を思考する方法として数学を特権化します。現代の物理学は数式の集合体ですが、数的なものこそほんとうの実在だとメイヤスーは主張する。数的なものこそが人間の外部にある実在だというのがメイヤスーの基本的な立場です。

 

これに対して、グレアム・ハーマンの哲学は、事物をすべてオブジェクト=対象ととらえようとすることより、「オブジェクト指向哲学」と呼ばれる。

 

ハーマンは、それぞれのオブジェクトが絶対的に分離し、独立していると考え、この状態を「ひきこもる」と呼んでいる。

 

千葉 ハーマンの考えでは、オブジェクトがバラバラにひきこもって存在する水準こそが「実在的」である。逆にオブジェクトとオブジェクトが関係する水準は感性的な世界にすぎない。だからハーマンは、さまざまなオブジェクトが表面的なレベルではつながっていてもじつはバラバラである、という二部構造を用いて世界を説明する。

 

思弁的実在論とあわせて千葉が紹介するのは、思弁的実在論に影響を受けた政治理論であるニック・スルニチェクの「加速主義」である。

 

その主張は、ひと言で言えば、フォークポリティックス(民衆政治)とは逆に、情報技術の進化を敵視するのではなく、むしろ「加速」を肯定する立場にたつべきとすることにある。

 

千葉 それに対して加速主義者は、人間が情報技術や数理に疎外されるディストピア的状況を積極的に肯定し、その果てにこそユートピアを実現させるという方向に振り切れるべきだと主張するわけです。

 

加速主義について、東はフォークポリティクス批判には共感できるものがあるものの、スローガンが抽象的で、実装のプロセスが見えてこないとするのである。

 

また、「人新世」という言葉も流行しつつあるが、これは人間の活動が与える地質学的影響を考慮すべきという主張であり、それを唯物論の復活であると東はみなしている。(以上「前編」ゲンロンβ29)

 

 

(以下「後編」ゲンロンβ28)

 

以上を踏まえて、マルクス・ガブリエルの哲学を再考してみると、実は同じ実在論と言っても、思弁的実在論とガブリエルの考えは正反対であると千葉は指摘する。

 

ガブリエルは、自然科学の素粒子の世界も、特定の文学作品も、一角獣のような虚構の存在も、同じ「意味の場」としてとらえ、多様なものの見方からそのまま実在へと飛躍してしまう。そして「世界」のような、それらを包括する全体の集合は考えることができない(=世界は存在しない)とするのである。

 

ポリティカル・コレクトニスの主張には便利な哲学であるが、逆にヘイトやレイシズムにも転用可能な危険をはらんでいる。また、悪しき相対主義にも陥りかねないと千葉は警告する。

 

千葉 かつてのポストモダン的な相対主義が、見ようによってものごとはちがって見えるという話だったのが、ガブリエルの場合「見ようによっては」と言われていたものが、見ようによらずともすべて実在しているという話になってしまう。つまりガブリエルの哲学は「相対主義の実在論化」なんですよ。そして、この相対主義の実在論化とは、ポスト・トゥルースそのものです。

 

さらに、思弁的実在論と東や浅田彰などの日本の現代思想との関わりを、千葉は指摘する。

 

それによれば、日本の現代思想は思弁的実在論を先取りしており、東のデリダ論である『存在論的、郵便的』(1998)における否定神学批判は、メイヤスーの相関主義批判と本質的に同じものであるとするのである。

 

千葉 つまり、『存在論的、郵便的』の試みとは、思考と世界の相関とその外部の不可能なものという構図があり、その不可能なもののさらなる外部、もうひとつの外部を探求していく試みだったのではないか。この二番目の外部が、思弁的実在論と東浩紀の共通の問題になっている。

 

これを受け、『存在論的、郵便的』を「哲学がとりこぼす物質性を探求した本」ととらえなおした上で、東は自らの立場を次のように要約している。

 

 哲学の歴史においては、素朴な物質性に直面することが、いつのまにか不可能なものに直面するという別の問題にすり替わることが反復されている。その反復から身をかわし、つねに世俗的なもの、身もふたもない単純さに立ち返らなければならないというのが、ぼくの思想なんです。

 

だが、東の議論はそこで止まることなく、「誤配」の哲学とのつながりを論じることになる。

 

ガブリエルは一角獣を実在とするが、東浩紀はそれを人間の中で不可避的に生じるエラー、誤配であるとする。さらに、『ゲンロン0 観光客の哲学』でとりあげた家族=ネーションについても、その文脈で語ることになる。

 

家族とそれ以外の境界はきわめて曖昧で、それはそのままネーションの境界につながる。ネーションの謎は家族の謎なのである。『ゲンロン0 観光客の哲学』の核心部分が明らかにされる。

 

 家族とネーションの問題とは、人間はなぜ境界をつくるかという問題、そのものです。『観光客の哲学』は前半で、友敵の境界の脱構築をテーマにした。だから後半では、ひとがなぜそもそも境界をつくるのか、そしてひとがどうしても境界をつくらなければならないだとすれば、その思想をどこまで自由なものに変えられるのかという話をしたかった。つまり、家族=境界の概念そのものを変えたかった。これはいま、政治的にも大きな意味を持つ試みのはずです。

 そして結論から言えば、ぼくは家族=ネーションとは一種の「誤配」、エラーだと考えたいわけです。けっして実在はしない。しかし同時にけっして逃れられないエラー。そのように自覚することで、ぼくたちは家族=ネーションの概念と、もっとうまくつきあうことができる。

 

「実在論化する相対主義ーーーマルクス・ガブリエルと思弁的実座論をめぐって」は、今日まで日本でなされた、思弁的実在論の、最もクリアで最も俯瞰的にして簡潔な解説である。それはマルクス・ガブリエル、ハーマン、メイヤスーの思想を位置づけ、それぞれの輪郭をわかりやすく伝えるだけでなく、日本の現代思想の思弁的実在論とのつながり、さらには東浩紀の『存在論的、郵便的』から『ゲンロン0 観光客の哲学』に通底する思想の核心部分まで明らかにする。まさに「神回」と呼ぶにふさわしい対談なのである。

 

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