つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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大童澄瞳『映像研には手を出すな!』1、2

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

 Kindle版

(紙の本は品切れ中だが、近日中に増刷予定とのこと)

 

大童澄瞳『映像研には手を出すな!』は、高校の映像研究という名のアニメ作成集団の活動を描いたコミックだ。

 

見るからに昭和レトロなダンジョンの気配漂う芝浜高校。ここでの三人の女子の出会いから物語は始まる。

 

アニメの設定に命を賭けるヲタクの権化のような浅草みどり

両親が芸能人で、自らもカリスマ読モの水崎ツバメはキャラクターの演技にこだわりを見せる。

そして暴走する浅草や水崎を予算や時間の限られた現実へと引き戻しながら、全体をコントロールするリアリストの金森さやか

 

映像研メンバーは、2巻の間、増えもしなければ減りもしない。そして、増やそうという意志もないし、それに加わろうという奇特な人物も今のところ出てこない。周囲の想像を接するほどに、あまりに発想や行動力がぶっとんでいるのである。
 

驚くのは、大童澄瞳の絵である。コミックというよりも、アニメーションのコミカライズのように、クリアで克明なディテールを持ったセッティングの中、個性豊かなキャラクターが、あらゆるアングルから捉えられ、動いて見えるのだ。

 

通常、漫画の背景は、映画の書き割りのように、平面的もしくは断片的に人物の背後に割り振られる。同じ対象物が繰り返しさまざまなアングルからとらえられることはめったにない。しかし、『映像研には手を出すな!』では3DのCGのように空間造形がしっかりと行われ、透視図的なパースペクティブの中を所狭しと登場人物たちが駆け回るのだ。

 

はじめの数ページを見た人は、この作者は絵が下手なのだと勘違いするかもしれないが、それは第一にキャラクターの顔のパーツを記号化してリアルにいたずらに近づけないこと、そして背景も手描き感を残すために、定規を使った直線を避けフリーハンドで描くことにこだわっているためである。

 

そこから、体温の感じられるレトロな味わいのあるタッチが生まれる。

 

明暗や色の表現もトーンを使わず、墨や絵の具の濃淡だけで、仕上げているように見えるし、背景その他にも塗りムラのある水彩画のテイストをわざと残している。

 

人物の動き、指先に至るまで、一つとして同じポーズがなく、観察眼の鋭さを物語っている。紋切り型のポーズや動きではなく、場面と個性の必然性から導き出された仕草。芝居が細かいのである。

 

すべては天才のなせる技だ。

 

『映像研には手を出すな!』では、三人がアニメの設定に没頭し始めると、ロケットや大型ロボットなど実物大となった妄想の世界の中に、彼女たちは入り込んでしまう。もともとの学園の世界自体が、水辺の軍艦島のような楽しいダンジョンとなっているため、どこまでが現実で、どこまでが想像かわからなくなるシュールな世界だ。

 

特に、ロボットやロケットでは、作者の蘊蓄の深さが、絵と言葉によってディープな解説が加えられ、そのヲタク度の半端なさが白日のもとにさらされる。

 

たとえばロケットの打ち上げシーンに関して

 

ロケットから出る大量の白煙が回転しつつ外側に広がって、位置によっては煙が塊になって揺れる!!

 

ランチパッド周辺の白煙はWSSSによる放水をロケットが気化させた水蒸気が凝結した湯気の割合も多いんじゃよ

WSSSSというーーーーーー

 

望遠カメラの揺れ!

 

で傾いて、噴射ガスとロケットの角度が垂直じゃなくなる!

 

煙も常に流されていく!

 

傾きは大事ですな。

 

(『映像研には手を出すな!2』)

 

といった芸の細かさが画像付きで解説されるのである。

 

こうしたディープなヲタク表現がエンドレスに続く。

 

学園物でありながらも部活動以外の授業などの時間は描かれることがない。あるのは、生徒会や教師との折衝、ロボット研など他の部活とのコラボ、そして発表の機会のみ。永遠の夏休みだ。

 

『映像研には手を出すな!』は、一見単純な絵に見えて、実はきわめて高度ないくつものことを達成してしまっている凄い作品、2018年一押しの漫画なのである。

 

 

安冨歩『超訳論語』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 1月18日までKindle版は50%OFF

 

儒学の主要教典である孔子の『論語』は、相反する二つの側面を持っているとみなされてきた。一つは支配者にとって好都合な封建社会の道徳としての『論語』であり、もう一つは理想主義的な学問の精神と倫理を説いた書物としての『論語』である。

 

どのように読むかによって、全く正反対の性格を持ちうるのが『論語』という古典の奥の深さ、偉大さであると言えよう。

 

封建道徳としての『論語』は、「忠」や「孝」など『論語』の中の諸概念を、同時代的な意味へ置き換えながら、教条主義的に読むことによって可能になる。

 

理想主義的な革命思想としての『論語』は、客観的方法により本来の字句の意味に立ち返りながら、テキストを主観的な方法により内在的に読むことによって可能になる。

 

客観的な方法とは文献や資料によって、言葉の意味の範囲を限定することである。

 

 たとえば現在では、「忠」という言葉は「主君や国家にひたすら尽くすこと」という意味で受け取られている。しかし「ひたすら尽くす」というような意味は、後代に生じたものであって、孔子・孟子の時代には、そのようには用いられていなかった。この歴史的事実を知らなければ、孔子の「忠」という言葉を正しく受け止めることはできない。

 

主観的な方法とは、残された書物の言葉と、対話を行うことによってのみ可能である。

 

 客観的方法では達成できない意味そのものの把握は、主観的方法によらざるをえない。

 それは真実の込められた言葉を、一人の人間として身体で受け止め、それが完全に納得できるまでしっかりと抱くという方法である。

 そうしてその言葉が、私自身の身体に響くのを待つのである。

 実のところ、言葉の意味を知るには、それ以外の方法はない。

 

一見初心者向けの早わかり『論語』に見える安富歩『超訳論語』は、実は言葉の原義に立ち返りながら、本来の主張をあぶりだすことで、『論語』に学問の精神に基づいたラディカルな革命思想としての輝きを与える試みである。

 

『論語』の思想とは何かという問いに、著者はこう答える。

 

「学習」という概念を人間社会の秩序の基礎とする思想である。

論語の冒頭は、「学んで時にこれを習う、亦たよろこばしからずや。」という言葉である。この言葉に、論語の思想の全ての基礎が込められている、と私は考える。

 

「超訳」というと、初心者に向けて、原文より多少離れても単純化しわかりやすくした訳のように思われがちだが、『超訳論語』は違っている。「學而時習之」という5文字が『超訳論語』の冒頭では、行間に隠れた潜在的な意味を引きだしながら、次のようなかたちで展開されている。

 

 何かを学ぶことは、危険な行為だ。

 なぜならそれは、自分の感覚を売り渡すことになるから。

 しかし、学んだことを自分のものにするために努力を重ねていれば、あるときふと本当の意味での理解が起きて、自分自身のものになる。

 学んだことを自分自身のものとして、感覚を取り戻す。

 それが「習う」ということだ。それはまさに悦びではないか。

 

「学ぶ」という行為と「習う」という行為の間にある違いを説明しながら、この5文字を5つの文へと置き換えているのである。

 

学ぶことの危険、自分から別の存在となる変身、そしてさらなる学問によって、その変身の違和感が緩和された次の段階へと達すること、この弁証法的ステップはそのまま『勉強の哲学』で千葉雅也が繰り返した図式に相当する。つまり、『論語』そのものが何よりも勉強の哲学だったということなのだ。

 

安富歩は学と習の間のこの関係を、「学習回路」の名前で呼び、それを「仁」や「君子」といった『論語』の基本概念の中に組み込んでいる。

 

  学習回路を開いている状態が「仁」であり、仁たり得る者を「君子」と呼ぶ。

  このような「学習」の作動している状態が「仁」であり、それができる人を「君子」と呼ぶ。君子は、自分の直面する困難を学ぶ機会と受けとめて挑戦し、何か過ちを犯せば、すぐに反省して改める。このような学習を通じて変化し、成長するのが、君子のあり方である。

 

ここには、「仁」を一般的な意味の「思いやり」や「情け」と解したのでは決して到達できない世界がある。さらに、「忠」や「恕」といった概念も、言葉の成立に込められた文字通りの意味にこだわるとき、その真価を発揮する。以下は、『論語』のエッセンスも見事な要約ともなっている。

 

  それゆえ君子には、如何なる圧力にも屈しない「勇」が必要である。どんな状況でも、命を脅かされたとしても、自分自身を見失わず、学習過程を守り抜き、自らの心の中心にいる状態が「忠」であり、心のままに偽らない姿が「恕」である。「忠恕」の状態にあるときに、君子の前には進むべき「道」が広がっているので、通の「選択」を迫られることがない。その道を進む中でみえてくる為すべきことが「義」である。

 

「忠」は、外的な社会関係への盲従ではなく、内なる基準である心への忠実さを表す概念となる。このことによって、支配者に好都合な道徳としての『論語』の既成概念は、完全に覆される。『論語』を、社会制度や家族制度へと縛りつけ家畜化しようとした試みより、解放し、本来のワイルドな輝きを取り戻す試みこそが、この『超訳論語』の狙いと言えるだろう。

 

 私は、このような論語の思想は、現代の日本社会でなんとなく「正しい」と考えられていることをことごとく否定し、まったく異なった倫理を体系的に提示しているように思える。『論語』は、古臭い保守的な書物ではなく、衝撃的で前衛的な革命の書だと、私には思えるのである。

 

この傾向は、特に「子路第十三3」の超訳である一四七〜一五一の「政治は名を正すことから始まる」に顕著である。一四八にはこうある。

 

「(…)名が正しくなければ、言葉が現実の事態に順応しなくなる。言葉が事態に順応していなければ、人々は事実を認識できなくなるので、当然ながら、仕事はうまくいかなくなる」

 

あるいは一四九。

 

「仕事がうまくなければ、人々の関係はおかしくなって、コミュニケーションが狂ってくる。そうなれば、どんな行事をやっても、つまらなくなる。そんな状態では、皆が保身に走り、本当のことを口にしなくなる。それでは誰が悪事を働いて、誰が正しいことをしているのか、さっぱりわからなくなる」

 

『超訳論語』の中には、今の政治の乱れを鋭く指摘し、正す言葉も多く含まれる。古典が不滅であるとはそういうことだ。

 

超訳された『論語』の語句の中には、学校の漢文の時間に習ったのとほぼ同じ意味のものもあれば、まったく異なる光を与えられるものもある。それらを通じて、感じ取られるのは、孔子という人の生きた思想、感動的なまでのその息吹きである。

 

 

 

荒木健太郎『雲を愛する技術』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略


 

春の霞、五月晴れの青空に浮かぶ白い雲、夏の入道雲、台風の訪れを告げる黒い雲、秋空に映えるひつじ雲。雪を降らす分厚い灰色の雲、ピンク色に染まった夕空に浮かぶちぎれ雲。山の頂上や飛行機から見下ろす一面の雲海。雲ほど、多種多様で、変化に富んだ現象も存在しません。

 

けれども、不思議な雲の姿や色を見つけていざ言葉にしようとしても、多くの言葉が思い浮かばないのが実情でしょう。

 

木健太郎『雲を愛する技術』(光文社新書)は、そんな多種多様な姿を持った雲についての膨大な知識を、何の予備知識のない人にも教えてくれる雲の入門書です。

 

まず、驚くのは採録された雲の写真の数です。小学校や中学校の理科の時間、高校の地学の時間で習った雲の種類は、十種類ほどだったと思いますが、この本の中には何百枚という写真が使われながら、何十何百という雲の名前が紹介されています。

 

たとえば、巻積雲一つとっても、層状巻積雲、レンズ状巻積雲、塔状巻積雲、房状巻積雲、波状巻積雲、蜂の巣状巻積雲の6つが写真と共に紹介され、その中には同じ雲とは思えないものも混じっています。

 

その写真にうつる雲の色の美しさ、姿かたちの多様さに時間を忘れて見入ってしまいます。そして、こんな名前が与えられていたのかを再確認させられます。

 

さらに、それぞれの雲の説明も、どのようにしてでき、どんな時に見られるのか、細かく説明されています。

 

多くの写真についで、目を引くのが、パーセル君というキャラクターを中心にした、イラストの数々で、雲がいかにしてできるのかや、天気の変化がいかにして生じるかがわかりやすく描かれています。雪のコーナーでは、お相撲さんのイラストで、どれだけの重さが家の上に降り積もっているかなども説明されます。

 

他の科学書によくあるように、ある程度基本を説明した後は、同じようなものに関しては説明を省略するというやり方ではなく、すべての雲や気象現象について、丁寧な説明を心がけて書かれています。

 

つまり、体裁は、初心者向けですが、内容的にはプロをもうならせる最も詳しい雲についての本になっているのです。

 

本書の中で扱われるのは、雲だけではありません。虹や蜃気楼、雷や雪、オーロラも、天使の階段のような空に見られる現象もすべて、どのような条件で、どのようにできるのかが、同じようなやり方で説明されています。

 

虹一つについても、ダブルレインボー、赤虹、モノクロ虹、過剰虹、反射虹、霧虹、雲虹などが紹介されますし、虹のように見える空の色彩現象についても、光輪や彩雲、アークなどの名前が与えられていることを知ります。また、月の見え方の変化に関しても、月齢以外に、月光環や月暈などが紹介されています。

 

また、どうしたら本書の中の写真のようなものが撮れるかのガイドも、随所で盛り込まれています。本書の写真は、スマホやコンデジと100円ショップで売っているようなマクロレンズを組み合わせて撮られたものがほとんどなのです。

 

『雲を愛する技術』は、このように多面的な魅力を持っているので、学校の勉強に役立てたい小中学生にも、毎日船で海に出て漁をしたり、田畑で作物を収穫したりする人にも、インスタ映えのする空の写真を撮りたい人、絵や漫画を描く人、短歌や俳句、詩や小説をつくる人など、いろいろな読者に開かれている本です。勉強にも、仕事にも、趣味にも使えるオールラウンドな本です。

 

雲だけでなく、気象現象に関して、これほど多くの言葉が、ポケットに入る一冊に収められた本も他にないと思います。

 

『雲を愛する技術』は、雲と気象に関する写真の宝庫、知識の宝庫であるだけでなく、それらを表現する言葉の宝庫でもあるのです。

 Kindle版

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