つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
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宇野常寛『チーム・オルタナティブの冒険』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本   文中敬称略

 

 

物語のメタモルフォーゼ

 

『チーム・オルタナティブの冒険』(ホーム社) は評論家宇野常寛による初の長編小説である。

 

立ち上がりは、ほろ苦い青春小説のように、主人公森本理生のモノローグで始まる。トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』小松左京『果しなき流れの果て』カート・ヴォネガット『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』光瀬龍『百億の昼と千億の夜』…登場する小説名も、多分に中二病的である。豚肉の串焼きが焼き鳥と呼ばれる片田舎の高校生森本理生は、本の貸し借りで親しくなった国語教師葉山千加子の死を機に、生活が一変する。それまで理生や親友藤川を中心に、好き勝手できるたまり場となっていた写真部の部室に、理生と同じ図書委員の板倉由紀子を連れ、白衣を着た国語教師、カバパンこと樺山優児が顧問として入りびたり始めたのである。さらにオートバイを操るイケメンの若者ヒデさんこと豊崎秀郷を使い、日替わりでフードのデリバリーを利用できるようにし、由希子を含む三名の女子が出入りし始めたことで、完全に部室の主導権を奪われてしまう。

 

葉山先生の存在をはじめ、たくさんのものを僕は失くしてしまっていた。しかしその代わりにいくつかの豊かなものと僕は出会い始めているように思えた。

 

カバパンや由紀子のノリには違和感を感じたものの、ヒデさんと意気投合し、女子の一人バイク好きの井上綾乃とも親しくなり、やがて夜から朝方までカブトムシやクワガタを観察するなど環境調査のアルバイトを請け負うにおよんで、著者の『ひとりあそびの教科書』を現代の高校生に投影したノベライゼーションなのかと考えそうになる。『夏への扉』『幼年期の終わり』『ストーカー』などのSF小説が話題に加わり、『アラビアのロレンス』『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『惑星ソラリス』などの映画も登場する。だが、ある不安とともに、しだいに雰囲気は単なるジュブナイルな小説ならぬものの影がさす。周囲に、ある視線を感じ始めるのである。これはホラー小説なのだろうか。それともSFなのだろうか。

 

そして「Team Alternative」(チーム・オルタナティブ)の名称。それはヒデさんのオートバイのステッカーに貼られたものだが、尋ねても「人類の自由を守る正義の秘密結社」と意味不明の答えが返ってくるばかり。そして親友藤川の失踪がトリガーとなり事態は急変、いつしか三人の謎を追うミステリ的展開に。鍵は、虫の眼にあった。

 

「(…)コツは一つ。虫の眼で世界を見ることだ。虫のように音を聞き、臭いをかぐことだ。そして虫の羽と足でこの世界を動き回ることだ。(…)」

 

なぜ、葉山先生は死ななければならなかったのか。なぜ藤川は失踪したのか。なぜカバパンや、ヒデさんだけでなく、由紀子まで、ケガが絶えないのか。すべての謎が解き明かされたとき、物語はその真の姿を現し、怒涛のクライマックスに向け加速する。

 

そう、『チーム・オルタナティブの冒険』は、『ひとりあそびの教科書』の単なるノベライズではなく、そこに含まれるコンテンツの物語として実装なのである。なんという爽快感!だが、こんなことが許されてよいのか?!禁断のキーワードを知るためには、書店で本書を手に取り、パラパラと、ページを最後まで早送りするだけでよいのである。

 

関連ページ:

宇野常寛『ひとりあそびの教科書 14歳の世渡り術』

 

書評 | 23:39 | comments(0) | - | - |
森合正範『怪物と出会った日 井上尚弥と闘うということ』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

『『怪物と出会った日 井上尚弥と闘うということ』は、『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』の著者森合正範による井上尚弥伝。あまりに強く、あっという間に試合が終わってしまうため、その強さを伝えることが困難な日本ボクシング界の至宝井上尚弥。その壁を超えるために著者がたどり着いた結論は、井上に敗れた対戦相手たちの目を通じて、井上尚弥を描くことだった。

 

取り上げられているのは、佐野友樹田口良一アドリアン・エルナンデスオマール・ナルバエスワルリト・パレナスダビド・カルモナ河野公平ジェイソン・モロニ―ノニト・ドネア、つごう9人の対戦相手。これに、井上尚也のスパーリングパートナーを最も多くつとめながら、一度も対戦できなかった黒田雅之、井上尚弥に父親が敗れたことを契機に、ボクサーの道を選んだナルバエス・ジュニアの二人がそれぞれ一章として加えられている。

 

それぞれの章が、一冊の本に匹敵するような密度の高さ。読者の心は、冒頭の佐野友樹、田口良一の章から、一気にひきこまれてしまう。それぞれに一人一人のボクサー人生が凝縮されている。

 

 ダウンを奪われようが、ポイントで大差になろうが、佐野は決して諦めなかった。意地と反骨心、そして勝利への執着心。佐野の覚悟が会場の雰囲気を少しずつ変えていく。井上の怪物ぶりを見に来たはずの観客から次第に佐野コールが起こった。(第一章 「怪物」前夜、p67)

「彼に勝ったら人生が変わる。そういうチャンスなんです。逃げて王者になっても、それじゃあ、みんな認めてくれないですよ」(第二章 日本ライトフライ級王座戦、p98)

 

驚かされるのは、インタビューされた相手が(一人現役で今後も対戦の可能性のあるドネアを除き)、敗戦の内容を、自ら進んで、しかも細部まで克明に語り、その試合を誇りに思っていることである。

 

誰一人井上尚弥に勝利できたボクサーはいないが、試合後の人生は、大きく異なる。田口良一やモロニ―のように、井上との試合を心の支えに、その後世界チャンピオンにまで上り詰めたものもいる。他方で、エルナンデスのように、井上戦が人生のピークであったボクサーもいる。敗北は敗北でも、それをどうとらえるかで、十人いれば十通りの解答があり、その後の人生もまるで違ったものになる。人生の生きた教科書がここにある。

 

本書が描くのは、単に井上と対戦するボクサー一人の人生だけではない。彼らを取り巻き、支え続けた人々の喜怒哀楽まで伝わってくる。手元の1万円以外、フィリピンの家族に送金し続けたパレナスは、井上戦のファイトマネーで家を建て、車を買い、家族や親戚を養った。これも一つの勝利のかたちではないだろうか。

 

身重だった河野公平の妻は、複数の選択肢のうちで、「井上君だけはやめて!」と訴えたが、それでも夫は井上戦を選んだ。そして、その試合を最後まで見守る姿は、涙なしに読めないものだろう。

 

 試合数日前、夫の口から「早く試合をやりたい」と聞き、信じられなかった。計量を終えるとまた、「早く試合をやりたい」と言った。驚きとともに感心した。

「我が夫ながら凄いな」

 会場に到着し、芽衣は出迎えに来たトレーナーの高橋に夫を託す。

「いってらっしゃい」

「よしっ!」

 一時の別れ。言葉は短くても、互いの思いは伝わる。

(第八章 日本人同士の新旧世界王者対決、p320)

 

まだ幼かったオマール・ナルバエスの息子は、井上尚弥戦を契機にボクサーの道を選び、井上との対戦を目標に戦績を積み重ねているが、この親子に井上に対するリスペクトはあっても、遺恨のようなものはない。その清々しさによって本書は締めくくられる。

 

「井上が父に勝ったことは別にして、僕は井上の大ファンだよ。いつも彼の試合を見て勉強しているし、自分の中では井上がパウンド・フォー・パウンドの一位。一発一発のパンチ力と爆発力。相手に与えるダメージの強さ。同じ体重のボクサーを相手にして、あんな選手は見たことがないだろ?(…)」

(第十一章 怪物が生んだもの、p420)

 

もちろん、これだけ多くの対戦相手の目を通して、井上尚弥をとらえれば、異口同音に語られるその強さの秘密も明らかになってくる。それらは、三つに要約される。

 

第一は、圧倒的なパンチの威力とスピードである。

 

第二は、練習内容を、ストレートに試合で出しきることのできる本番の勝負力。

 

「尚弥は練習したパンチやコンビネーションを何のためらいもなく、試合で瞬時に打ち込めるんですよ」

(第十章 WBSS優勝とPFP一位、p375)

 

そして第三には、相手の作戦を早々に解析し、その裏をかいてくる対応力である。たとえ試合中に拳や足を痛めようとも、それを感じさせず、相手の想定外のパターンへと転じることで、逆に有利に試合を進めてしまったことも一度ではない。

 

『怪物と出会った日 井上尚弥と闘うということ』は、単にボクシングや格闘技に興味がある人だけでなく、すべての読者にお勧めの、2023年一推しのノンフィクションである。そこには、乗り越えがたい壁にぶつかり、それに果敢に挑戦し敗れながらも、その後も力強く人生を歩み続けた人々の究極のドラマがある。

 

関連ページ:

森合正範『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』

書評 | 00:25 | comments(0) | - | - |
山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』

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『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』(フィルムアート社) は自ら庭師であり、大学の教員でもある庭園研究者山内朋樹の造園論である。

 

伝統的な日本庭園の造形は、いかなる形によってなされるのか、なぜあの木はこの位置に置かれ、この石はこの位置に置かれるのか。著者は、京都福知山の古寺の作庭現場に立ち会いながら、庭園生成の内的な論理を、庭園の詩学と庭師の知恵の二つの視点から、考察してゆく。あたかも将棋や囲碁の棋譜のように、文字通り庭師の一挙手一投足が、記録され、その度に新しい庭の相が記述され、考察されるというかたちで進行してゆく。

 

庭は、あらかじめ描かれた設計図のようなものに沿って造られるのではない。庭の存在する場所、周囲の風景や建築物、土地の起伏、与えられた素材などによって、自然に決まってゆくのである。

 

 石はなにもないところに突如として置かれるのではない。つまり作庭行為は決して「無からの創造」ではない。石はつねに物体や場の特性がひしめきあう偶然的な力の場に巻き込まれてゆく。p74

 

ひとたび置かれた石や、植えられた樹木も、不動の位置を占めるわけではない。それらはあくまでも仮の場所であり、他の石や樹木、地面の起伏・高低差とのバランスで、位置を変え、それにつれて、庭の様相も刻一刻変化してゆく。これは「物の折衝」である。

 

庭師一人の意志によって、かたちが決定されるわけでもない。作庭を依頼した住職の意向と庭師の意向には、当然のことながらずれがある。それを調整しながら、落としどころとなる解を見つけてゆくのも作庭のプロセスである。これは「者の折衝」である。

 

たえず変動する中で、来るべき庭を見つけようとするそのプロセスは、様々なアートや哲学の生成プロセスに似ている。

 

たとえば、千葉雅也の『別のしかたで ツイッター哲学』では、あくまでそれぞれのツイート=断章は、仮固定にすぎず、次なるツイート=断章によって、更新される運命にあるが、同じようなプロセスがここで語られている。

 

 着工してもなお、設計図や模型や見積書が更新され続けていくように、この庭=設計図は無数の修正とやり直しのなかで相対的に安定し、人々の意図を折衝する媒体として機能するようになっていく。p115

 

油絵による抽象的な絵画も、すでに描かれた描線や図形は、次なる描線や図形を呼び込むが、それらがうまく機能しない場合には、別の描線や図形、色によって上書きされ、更新されてゆく。その中で、自然に生まれてくるのは、同じ描線や図形、色によるパターンの反復である。ただし、作庭の場合には、意図的またはタッチではなく、石自体の形状が利用される。

 

 石と石はたんに隣接するから組になるのではなく、隣りあう石相互に形態的な反復――-天端や小端の線や面の呼応関係――-が織り込まれているからこそ組になっている。

 石と石はかたちの反復を抱えるからこそ組になる。p137

 

本書が提示するテーゼも、そのプロセスごと、仮のものである。ページを進めると、さらに別の概念がでてきて、それまでに語った内容が、転覆されたり、意味を変えたりする。庭の場合には、立ち位置を変えることで、見えてくるものも異なる。別の視点に立って、やり直すこと。作庭のプロセス同様、本書の記述もまた、絶え間ない不安定さの中にある。

 

『庭のかたちができるとき』は、単に庭づくりに関心がある人のみならず、思考やさまざまな芸術の創作のプロセスに対し、数えきれないほどの多くのヒントや示唆を与えてくれる書物である。

 

『庭のかたちが生まれるとき』は、文字と写真、図の三つによって構成される時間の書物である。この本を読んだ前と後では、様々な庭の見え方も違ってくるはずである。というのも、一見静的に見える日本の庭園が、いかに多くの運動、たえず変化し続ける線と点によって構成されているか、その潜在的な時間を、私たちは思い描かずにはいられないからである。そして、自宅に庭がある人には、一歩踏み出して今とは別の庭を造る試みも可能にしてくれるだろう。ほんの一つの石を置いてみる。一本の小さな木を植えてみる。すると運動が生じる。新たなバランスを求めて、庭は、次の石、次の樹木を呼び込み、変容のプロセスがスタートするのである。

 

関連ページ:

千葉雅也、山内朋樹、読書猿、瀬下翔太『ライティングの哲学』

 

書評 | 21:47 | comments(0) | - | - |

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