つぶやきコミューン

立場なきラディカリズム、ツイッターと書物とアートと音楽とリアルをつなぐ幻想の共同体
<< April 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
 
RECENT COMMENT
RECENT TRACKBACK
@kamiyamasahiko
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略 ver.1.01

 

 

『ゲンロン』の創刊準備号として計画されながら、『ゲンロン1』〜『ゲンロン4』の後に刊行された『ゲンロン0』は、「観光客の哲学」のタイトルを持った東浩紀の単著である。「観光客」の概念は、すでに『弱いつながり』において提示されており、また『ゲンロン』の前身である『思想地図β』の『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』や『福島第一原発観光地化計画 思想地図β4-2』の中でも実践的に試みられたことがあるが、その概念の思想的位置づけが深化されたかたちで、体系的に語られるのはこれがはじめてである。


以下前半の内容を超訳的に抽出してゆきたい。『ゲンロン0 観光客の哲学』は二部に分かれ、第1部が観光客の哲学、第2部が家族の哲学(序論)となっている。第2部の家族の哲学は、第1部の観光客の哲学を補完するものと位置づけられ、「第5章 家族」「第6章 不気味なもの」「第7章 ドストエフスキー最後の主体」の3つが、独立したエッセイに近い形で収録されている。単純化するため、この記事では、第1部の観光客の哲学のみにフォーカスする。第1部は「第1章 観光」「付録 二次創作」「第2章 政治とその外部」「第3章 二層構造」「第4章 郵便的マルチチュードへ」からなっている。

 

本書の要旨をまとめることは難しくないし、誰にでもできることである。それは要所要所で著者が、それまでの経過を要約し、言葉を選びながらパラフレーズを行っているからで、読者である私たちの頭が急によくなったわけではない。本書で登場する本を何冊か読んだことがある人も、自分で直接原典にあたったときよりも、ずっとその本がわかったという気にさせられたはずである。『ゲンロン0』の読みやすさは、なるべく漢字を開きひらがな書きを増やす表記上の努力、写真と白紙を章と章の間に踊り場的にはさんだり、注釈を末尾ではなく同じページの下の段にまとめるレイアウト的努力、複数の思想家についての記述のページ数をそろえる量的調整の努力なども無視できないが、何よりも東の卓越した要約力と、要約的断章を随所に挿入しながら一歩ずつ議論を進めてゆく構成上の工夫によるところが大きいのである。

 

グローバリズムと、それに対する反動としてのナショナリズムの台頭の影で、リベラリズムの掲げる理念である普遍性は瓦解し、今日の世界は、かつてのような寛容性を他者に対して持てなくなりつつある。

 

そうした生きづらく居心地の悪い時代において、リベラルな思考の拠点となりうるオプションとして東は「観光客」を取り上げようとする。本書の目的は、観光客からはじまる他者の哲学を構想することなのだ。

 

観光客とは、いわば二次創作のようなものである。つまり、オリジナルを素材としながら、どのようにそこに面白みを発見し、発展されるかは自由なのである。それゆえ、二次創作同様、「ふまじめさ」、無責任さによって特徴づけられる。

 

 両者に共通するのは無責任さである。観光客は住民に責任を負わない。同じように二次創作者も原作に責任を負わない。観光客は、観光地に来て、住民の現実や生活の苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。二次創作者もまた、原作者の意図や苦労などまったく関係なく、自分の好きなところだけを消費して去っていく。

pp45-46(強調…原文は傍点)

 

観光は、日本におけるインバウンド消費の急激な増加が示すように、地球上を覆い尽くす勢いで、発展しつつある。だが、観光についての議論は、実学中心で、まともに掘り下げて語られたことがない。その意味を明らかにするため、東は思想史的な回り道を行おうとする。

 

観光が成立するようになったのは、19世紀のヨーロッパであった。それに先立つ18世紀末の啓蒙思想の中に東はその萌芽を認める。

 

『カンディード』の中で、ヴォルテールは「最善説」を批判するために、世界は誤りに満ちていることを示そうとした。これは実際の旅に基づいたものではなく、思考実験としての旅行であったが、世界には想像できないような悲惨な現実があることを示そうとするダークツーリズムの先駆でもある。

 

同時代人のディドロ『ブーガンヴィル航海記補遺』の中にも、「タヒチ人」によってヨーロッパの風俗・習慣を相対化するなど脱ヨーロッパ的普遍性への志向が見られ、その系譜はそのままレヴィ=ストロースへと連なる。

 

さらに、カントは『永遠の平和のために』の中で、永遠の平和実現のためには、人々の自由な移動が前提とされることが必要であるとした。観光的な人々の移動の中に利己心や商業までもが含意され、観光の哲学の祖型を見ることができる。

 

これに対し、20世紀の思想家、カール・シュミットは『政治的なものの概念』の中で、政治の条件として、友と敵の峻別を必須のものとしたのである。このシュミットの発想は、弁証法的発展の中に人間の成熟を見るヘーゲルにつらなるものだが、このようなシュミットの立場からすれば、政治そのものを抹消してしまうグローバリズムは到底容認できるものではなかった。

 

アレクサンドル・コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』の中で、誇りを失い、他人の承認ももとめず、与えられた環境に自足する第二次大戦後の「ポスト歴史」の世界の典型として、アメリカの消費者を「動物」と呼んだのであった。

 

さらに、シュミットとは対極の位置に立つハンナ・アーレントも、『人間の条件』の中で、「活動」と「労働」を区別し、行為の固有名性のない「労働」を、人間の条件を欠いた「動物」的なものと考えたのである。

 

シュミットもコジェーヴもアーレントも、十九世紀から二〇世紀にかけての大きな社会変化のなかで、あらためて人間とはなにかを問うた思想家である。そこでシュミットは友と敵の境界を引き政治を行うものこそが人間だと答え、コジェーヴは他者の承認を賭けて闘争するものが人間だと答え、アーレントは広場で議論し公共をつくるものこそが人間だと答えた。p108

 

実は、「観光客」には、彼らが「人間ならざるもの」として排除しようとしたすべての要件がそろっていると東は言う。

 

それはモダンな「人間」観、政治から排除されるべき異物、他者である。

 

観光客は大衆である。労働者であり消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる。友もつくらなければ敵もつくらない。そこには、シュミットとコジェーヴとアーレントが「人間ではないもの」として思想の外部に弾き飛ばそうとした、ほぼすべての性格が集っている。観光客はまさに、二〇世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば、必然的に、二〇世紀の思想の限界は乗り越えられる。pp111-112

 

これに続く「第三章 二層構造」の「二層構造」とは、動物化するグローバリズムと人間化を求めるナショナリズムが重なり合いながら、異なる価値観によってせめぎ合う状態をさしている。その状態は、経済という下半身はつながりながら、政治という上半身はつながらない、いわば不純な愛の状態である。

 

 二一世紀の世界は、人間が人間として生きるナショナリズムの層と、人間が動物としてしか生きることのできないグローバリズムの層、そのふたつの層がたがいに独立したまま重なりあった世界だと考えることができる。この世界像のうえであらためて定義すれば、本書が構想する観光客の哲学なるものは、グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路がないか、市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもうひとつの回路はないか、その可能性を探る企てである。p127 (強調…原文は傍点)

 

観光客は、このような二重構造の時代において、「動物の層から人間の層へつながる横断の回路、すなわち、市民が市民として市民社会の層にとどまったまま、そのままで公共と普遍につながる回路」(p144)として位置づけられる。

 

それを一層明確にする上で、参照されるのがネグリハートのマルチチュードであり、ドゥルーズ=ガタリのリゾームの概念である。

 

マルチチュードの誤りは、内容なき連帯である。それは一時の盛り上がりを見せても、継続的に政治を変えてゆくはたらきを持たないことはアラブの春の後の歴史を見ても明らかである。

 

ネグリとハートの否定神学的なマルチチュードを、誤配性を含んだ郵便的マルチチュードへと置き換えながら、新しい時代の要請に合致したものへと練り上げることに「第4章 郵便的マルチチュード」は充てられる。

 

そして観光客こそは、その郵便的マルチチュードであるというのだ。

 

マルチチュードやリゾームが、具体性を欠いたイメージにすぎないものと批判しながら、東が次に参照するのはストロガッツの「スモールワールド」とバラバシアルバートの「スケールフリー」というネットワーク理論である。

 

スモールワールドグラフによって、人間の関係のネットワークをモデルとして可視化しながら、近隣の人とのみ関わる格子グラフに、わずかな「つなぎかえ」を加えることで、最大距離や平均距離が大幅に短縮されることが明らかになる。このつなぎかえ、ショートカットこそ、観光客に相当する。

 

スケールフリーは、規模にかかわらず、同じ分布をとるというものでたとえばウェブページの被リンク数などに適用可能な理論である。スケールフリーの分布は、統計学でいう「べき乗分布」に属するが、それによりネットワークの変化をシュミレーションすることも可能である。

 

これらの数学的モデルと接合することによって、東はネグリのいう「帝国」も、国民国家も、郵便的マルチチュードも実体であり、否定神学的マルチチュードやリゾームという単なるイメージとは別の、計量可能な次元で、観光客の哲学を議論することが可能だと考えるのである。

 

ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』において、公的なふるまいと私的な信念との分裂を、アイロニーによって解消し、さらに連帯の可能性を模索したが、その哲学の中に、『弱いつながり』ですでに提示された「憐れみ」の誤配に相当するものを東は見つけだす。

 

  たまたま目のまえに苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくそのひとに声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、「われわれ」の基礎であり、社会の基礎なのだとローティは言おうとしている。これはまさに、つなぎかえがスモールワールドグラフを作った、あの誤配の作用そのものなのではなかろうか。pp197-198

 

『ゲンロン0 観光客の哲学』において、東浩紀は、思想や抵抗の拠点としての「観光客」の概念のみならず、その思想史的な意味と、計量的な数学モデルによって語る道をも同時に提示している。それは批評が、一つの視座によって、思想的な言語を語りつつ、同時に現実を語ることが可能であり、一見救いの見えないこの世界にも、理性や知性による希望の光がまだ存在することを意味するものにほかならない。

 

参照リンク:

このすがすがしい哲学書は東浩紀の技術の集積である 東浩紀よ、どこへ行く(cakes)

 

関連ページ:

小林よしのり・宮台真司・東浩紀『戦争する国の道徳』
東浩紀『弱いつながり』 
東浩紀・桜坂洋『キャラクターズ』
東浩紀『セカイからもっと近くに』
東浩紀『クリュセの魚』
東浩紀編『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(1) (2)  (3) (4)

宮下奈都『羊と鋼の森』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  文中敬称略

 

宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋)は、若い新人調律師の日々の生活を描いた長編小説だ。羊と鋼の森は、ピアノの内部構造を表している。

 

山奥で育った外村(とむら)は、高校時代体育館で立ち会ったピアノの調律に魅せられ、やがて自らも調律師としての道を歩むようになる。

 

右も左もわからぬままに、先輩調律師のに連れられて、客の家を回るようになる。そして、調律を任されるようになる。しだいに自信を持ち、作業を一人でやるが、大きな失敗をやらかしてしまう。客の要求に応えられず、拒絶されることもあれば、ひどい状態のピアノを生まれ変わらせて、死んだようになっていた持ち主の目に生命の光がともらせることもある。

 

そんな中でも、外村が気になっていたのが、佐倉家の双子の姉妹、和音(かずね)と由仁(ゆに)だった。

 

美しい粒のそろった音を持つ和音、色彩感あふれる演奏の由仁。柳は妹の由仁の方を評価していたが、戸村のお気に入りは姉の和音の方だった。

 

しかし、ある日佐倉家から調律を断る連絡が来る。ピアノを弾けなくなったのだと言う。二人のうちどっちが?それ以上のことは何もわからなかった。

 

それまで淡々と調律師の客回りの日々を描くだけだったこの作品も、ここから一気に加速する。

 

外村は、素朴で素直だが、社交の才は乏しい、気の利かない男だ。ただ真面目に日々の仕事をこなし、事務所のピアノを調律する訓練を積んだり、家ではピアノ曲集を聴くだけの。有名なピアニストのピアノの調律をしたいという野望もない。

 

だが、この姉妹とともに、外山の心にも変化が生じ始めるのだった。

 

『羊と鋼の森』は、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』とは対照的に、ピアノの調律がテーマであるにもかかわらず、ほとんどクラシックの曲名が出てこない。これは大変な力業だ。名曲と演奏者が生み出すスリリングなドラマ、それにいっさい依拠せず、ピアノの内部構造をいじる地道な作業や、それが奏でる音そのものを、その変化を描こうとする。そのとき、見えてくるのは、外村の故郷の森の風景であり、ピアノの中に宿った羊のいる風景だ。

 

 綿羊牧場を身近に見て育った僕も、無意識のうちに家畜を貨幣価値に照らして見ている部分があるかもしれない。でも、今こうして羊のことを考えながら思い出すのは、風の通る緑の原で羊たちがのんびりと草を食んでいる風景だ。いい羊がいい音をつくる。それを僕は、豊かだと感じる。p66

 

季節で色を変える山の木や野鳥の姿も描かれる。いっしょに街を歩いても柳は気にかけない。それはそのまま外村の心のクオリアを描く描写となって、この作品の主音(ドミナント)を決定する。

 

 町が華やいで見えるのは、きっとオンコの実が色づいたせいだ。街路樹の赤で、見間違えるように通りが明るい。山中の実家で暮らしていた頃は、道端のオンコやコクワ、ヤマブドウが熟すのを待って、学校の行き帰りに一粒ずつ口に入れて歩いた。p29

 

柳は、そうした植物の名前を知っていることが戸山の調律師としての強みであると言うのだった。

 

「話術とか教養とかそういう意味じゃなくてさ。もっと調律の本体に役立つと俺は思う」

 調律の本体。どういうことか、よくわからない。僕はまだそのまわりをぐるぐるまわっているだけの見習いだった。

「なるべく具体的なものの名前を知っていて、細部を思い浮かべることができるっていうのは、案外重要なことなんだ」p33

 

もう一つ、『羊と鋼の森』の世界を特徴づけるのが、ベテラン調律師で社長でもある板鳥が引用する原民喜の言葉だ。

 

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」p57

 

高校の体育館での板鳥の調律に魅せられ、憧れて調律師としての道を歩み出した戸山にとって、それはそのまま自らがめざす調律の音となる。そして、宮下奈都がめざす小説の言葉なのかもしれない。

 

『羊と鋼の森』には、わがままなクライアントはいても、基本的に悪人の出てこない穏やかなドラマだ。調律師間のどろどろとした競争も、メーカーの利害のからんだ謀略も出てこない。先輩調律師の柳、社長の板鳥、事務の北川、基本的にはみないい人ばかりである。コミュニケーション能力の若干不足した職人肌の外山だが、もともと似た者同士の職場なので、大きな齟齬をきたすわけではない。そして、ほの暗い世界に光がさすように、しだいに周囲の理解と評価を得るようになってゆく。それが森の風景と共に、読者の心をゆっくりと癒してゆく。

 

そういう意味でも、キャラ立ちした人物が数多く登場する、ドラマチックな展開の『蜜蜂と遠雷』とは対照的な作品だ。

 

『羊と鋼の森』は、心が疲れたとき、思わず読み返したくなるような力を持った静かな名作である。 

  Kindle版

書評 | 11:10 | comments(0) | - | - |
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』 PART2 (liteバージョン)

JUGEMテーマ:自分が読んだ本  

 

 

立命館大学准教授の千葉雅也さんの『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文藝春秋)は、自己啓発書の体裁をとった哲学書です。また、ジル・ドゥルーズなどフランス思想を中心とした哲学的思考方法の理論と実践を盛り込んだ学問の入門書でもあります。

 

「勉強」といっても、ここで語られている「勉強」にはあらゆる分野の勉強が含まれるのですが、パターン暗記としての受験勉強ではありません。ですから、高校3年生や中学3年生が受験直前にこの本を読んで、即戦力になるかと言えばそれほど大きな効果はないかもしれません。論理的思考力が身につき、硬い評論系の文章への適性も養われるので現代文の読解力の向上につながり多少得点はアップするかもしれませんが、知識やノウハウが即座に受験に応用できるわけではありません。『勉強の哲学』の内容は、むしろ、その後大学で学ぶ学問、人生におけるさまざまな勉強、単なる記憶から一歩踏み込んだ勉強の方法論にかかわるものです。逆に、小学生・中学生であろうと、個人的に研究発表を行ったり、学園祭でクラスや部活で発表を行ったりする場合には、基本の考えを養う上で、年齢に関係なく、役立つことでしょう。

 

そういう人は、まず「第四章 勉強を有限化する技術」から入るのがよいと思います。

 

インプット論

 

「有限化」が、この本のキーワードの一つになっています。これはやりだしたらキリがない勉強を、どこかでキリをつけるという意味です。本屋へ行っても、図書館へ行っても、たった一つの分野でも、たくさんの本があります。どれから手をつければよいのでしょうか。またネット上にも、その分野に関する無数の情報があります。どれを信じたらよいのでしょうか。

 

趣味的に語るのなら別ですが、どんな年齢であろうと、本格的に勉強したり、研究したりする場合にははっきりしています。

 

1)まずネット上の情報よりも紙の本を優先する

 

 信頼できる著者による紙の書物は、検索して上位にすぐ見つかるようなネットの情報よりも信頼できる。この態度を、勉強を始めるにあたって基本とすべきです。

「まとも」な本を読むことが、勉強の基本である。

 ネットより紙という基準がまずある。一度印刷されると集成できないので、本は基本的に、慎重につくられるものだからです。(pp174-175、本文では斜字体は傍点で強調されています)

 

2)本を選ぶ場合には、入門書→教科書→基本書→一般書→専門書の順に読んでゆく

 

いきなり難しい専門書にチャレンジするのは、気合の入った初心者が行いがちなミスですが、やたらと読むのに時間がかかって得るものが少なく、効率の悪い勉強法です。ですからまずその分野全体の見取り図を大ざっぱに頭に入れるために入門書から始め、アタリをつけるのです。

 

 入門書によって、勉強の範囲を「仮に有限化する」のです。

 専門分野に入る前提として、どのくらいのことを知っておけば「ざっと知っている」ことになるのか、という範囲を把握する。必要なのは、最初の足場の仮固定です。そして、

 入門書は、複数、比較するべきである。p176

 

「仮固定」も本書の大事なキーワードです。いきなりちゃんとした家を、知識や言葉で建てるのではなく、とりあえずキャンプを張るような作業です。仮ですから、いつでも取り壊したり、移動してベターなものに置き換えることが可能です。ツイッターのつぶやきもそうです。とりあえず自分はそう思う、そう感じると言っておく。でも、あとで調べたら、それはまちがった情報だったり、不正確だったりする。するとバツが悪いので黙って削除する、あるいは律儀な人なら訂正を入れ、断って削除したりしますね。仮固定とは、ツイッターのつぶやきのようなもので、これについては著者の『別のしかたで ツイッター哲学』で詳しく書かれています。

 

一冊の入門書では、著者の癖(たとえば自分の専門分野の情報が特に濃かったり、広く認められてはいない自説が紛れ込んだりする)が出たりしますし、何よりも予備知識がない段階ではすべての情報が同じように目に入り、どこが重要であるかわかりません。だから入門書を二冊三冊と読み比べると、重複する記述から、信頼性を吟味したり、情報の重みづけができるようになります。情報の重みづけとは、要するに試験のヤマをかけるのと同じ行為です。

 

そこから焦らず、時間をかけながら、教科書、基本書、一般書、専門書と進んでゆくのが、勉強の収拾のつかなさを避ける上でよい学習法ということになります。

 

この場合も、それぞれの本が学問の世界で、しっかりと市民権を得て、信頼を獲得している「ちゃんとした本」であることが前提です。

 

3)完全主義を捨てる

 

教科書のような初心者向けに書かれたものでも隅から隅まで理解することは不可能です。その場合、まず事典のように「引く」と考えてしだいに知識を増やし、その分野の輪郭をつかむのがよいやり方です。誰も一冊の本を、隅から隅まで理解することも、語りきることもできませんから、見出しを読むだけでも十分有効な読み方です。

 

 読書と言えば、最初の一文字から最後のマルまで「通読」するものだ、というイメージがあるでしょう。けれども、ちょっと真剣に考えればわかることですが、完璧に一字一句すべて読んでいるかなど確かではないし、通読したにしても、覚えていることは部分的です。p179

 

教師の存在も何のためにあるかと言えば、勉強の際限のなさを有限化するためです。無駄な遠回りをさせない道案内として接するのがよい付き合い方ですが、ウマの合う教師と合わない教師とが生じるのも避けられないことです。教師の分野や方法へのこだわりが自分と似ているかそうでないかによって、スムーズな学習が可能になったり、逆に苦手意識を覚えたりするようになるのです。

 

4)内在的に読む

 

とかく私たちは世間一般の常識や自分の感情によって物事を判断したり、白黒をつけたりしがちです。しかし、学問や科学の世界は、そうした常識に相反する場合もあれば、ずれた言葉の使い方をする場合もあります。学問について書かれた文章を読む場合には、いったんそうした世間の常識や自分の感情のような外的な価値判断を宙づりにして、文章を書かれた通りに読むという作業が必要になってきます。これが内在的に読むということです。

 

決して価値判断が必要ないわけではありません。この人が言っていること、書いていることはよいのか悪いのか、賛成か反対かではなく、何が言いたくて、どのような根拠に基づいてそう言っているのかをまず正しく読み取る必要があるのです。

 

こうすることによって、新しい発想、慣れない考え方も次第に自分の中でなじみ、理解できるようになります。

 

その中で鍵になるのは、対立の関係です。自分の考えと同じかそうでないかではなく、著者が持ち出している概念の間の対立を正しく読み取ることが大事です。

 

5)プロ・モードとアマ・モードを使い分ける

 

他人の考えを理解する場合、完全などないことはすでに語られました。そこで大体のラインを押さえながら、自分なりに言い換えながら理解を進めることになります。これがアマ・モードです。しかし、学問の世界では言いかえが的確で本人の主張と一致することが必要です。したがって、本文中の言葉を抜きだし、自分の理解との間に距離がないことを確認しながら、読み進めてゆく必要があります。これが、プロ・モードです。文章でも引用が重要なのは、書き手が勝手に言っているのではなく、著者の主張を言いかえているにすぎないことを示すためです。

 

アウトプット論

 

ある程度知識のストックができてくると、いきなり本の形は無理としても、レポートや論文の形でそれを表す必要が出てきます。その場合、どのように自分の考えを形にまとめればよいのでしょうか。

 

1)書きながら考える

 

アイデアがまとまってから書くのではいくら時間があっても足りず、締切にも間に合わなくなってしまいます。ここでも所要時間を有限化する必要があります。そのための正解は、書きながら考えることです。

 

 普段から、書くことを思考のプロセスに盛り込む。

 アイデアを出すために書く。アイデアができてから書くのではない。

 アイデアを書くことで出すように努めているうちに、長いものも書けるようになる。p204

 

2)まず箇条書きの形でメモをする

 

アイデアをいきなりしっかりした文章の形でまとめようとしても行き詰まってしまいます。材料集めにすぎない段階では、メモのかたちで、材料を揃え、出し切る必要があります。余計な飾りを省いた語句の羅列にすることで、全体の見取り図や、他のアイデアとの組み合わせの可能性も見えやすくなるでしょう。

 

3)アプリを使って、アイデアをまとめる

 

ここは千葉さんのオリジナルな部分で、すべての人がやっているわけではありません。まとめが必要ないのではなく、手書きなどアナログな形でまとめている人も多いということです。アプリを使うことの意味は、複数のテーマにわたり散在しがちなメモを一括管理し、自由に編集できるようにするためです。メモツールとしては、千葉さんはEvernoteで関連するSNSや新聞記事をメモと一緒に保存するために用いていますが、メモをまとめ編集するのにアウトライナーを使っていると言います。千葉さんが使っているEvernoteもアウトライナーのWorkFlowyもネットで無料でダウンロード可能です。

 

Evernote

WorkFlowy

 

 長い文章を書くというのは、「ひとまずこの程度でいい」という思考の仮固定が、たくさん積み重なっていくことです。文章を書くとき、何か漠然と大きなことをしようとしているという意識では、身動きがとれなくなるでしょう。小さなタスクに分解する。小さな箇条書きに分解する。一個一個は仮固定でいいのです。仮固定から仮固定へ進んでいく。p211

 

切断の方法

 

第四章のあらましはだいたいこのような内容です。しかし、勉強を有限化する方法がすべて紹介されているわけではありません。「第二章 イロニー、ユーモア、ナンセンス」「第三章 決断ではなく、中断」では、より本質的で、中身に関する有限化の方法が書かれています。

 

イロニーもユーモアも知識が深まり、言葉が自由度を増すプロセスで可能となる思考スキルです。わかりやすく言えば、イロニーとは中二病的発言発想で、ツッコミです。たとえば(以下は本文に書いてない例ですが)、「いい大学へ入って、いい会社へ入って」というような価値観を親が押し付けようとすると、「いい大学へ行ったからと言って、就職が保証されているわけではない。一流大学を出ても何十社も就職試験に落ちていて何の保証にもならないではないか」と子どもがつっこむことは可能です。よしんば「いい会社に」入ったにしても、いつリストラされるかわからない。だから、そんな努力は無駄だというような言い方がイロニーです。逆にユーモアは、ボケに相当し、どんどんとずれた発言を一人進めるやり方です。会社もいいけど、フリーランスもいいね、フリーと言えば弁護士もいいし、漫画家も『ONE PIECE』みたいに売れれば大金持ちになれるのでいい。お金が儲かると言えば俳優や歌手など芸能界もいいかもしれない。こういう風に、言葉から言葉へと連想によって連ねながらずれてゆくのを、千葉さんは拡張的ユーモアと呼んでいます。ナンセンスはと言うと、たとえば「シューカツよりも、トンカツやチキンカツの方がオレは好き」のような言葉遊びの世界のことです。

 

哲学の場合にも真理はどこにあるのか。確かなものを得るために、まずすべてを疑ってかかろうとなります。そうしてすべてを疑った上でも、この疑っている自分だけは確かではないかとデカルトはそこでキリをつけました。それが「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な言葉です。しかし、二十世紀になるとその「われ思う」さえも、果たして統一された自我や意識があるのか、疑われる、つまりツッコミを受けるようになります。それが、フロイトに始まる精神分析の流れとなり、フッサールに始まる現象学の流れとなりました。ここで書いた哲学の例は、実は本文のどこにも書いていないのですが、現代思想を語る以上当然前提とされていることです。

 

ツッコミは学問の原動力ですが、どこかでキリをつけなくてはいけません。ボケも、あれもいい、これもいいと様々な問題を遍歴し続けるだけでは、学問になりません。学問を研究するためには、いたずらな深堀りも、連想ゲーム的な研究対象や問題意識のエンドレスな遍歴もキリをつけなくてはいけません。毎日の仕事もどこかで切り上げて寝る必要があるのと同じです。

 

勉強のキリがなくなるのをどうすれば防ぐことができるのか。それが書いてあるのが「第三章 決断ではなく中断」です。

 

面倒くさいので、一気に決めてしまえという考え方は、学問をする人間の態度ではありません。選択した瞬間に思考停止しているからです。

 

学問とは基本的に面倒くさいものです。決定的なファイナルアンサーを求めるからいけないのです。どこまでも、とりあえずの結論、仮固定があるのみです。

 

その時に参考になるのは、やはり同じように勉強している人、研究し続けている人の文章や本でしょう。それら信頼できる人の本や言葉との比較によって無限の深堀りはセーブできるでしょう。そして、最後に鍵となるのは自分の無意識的なこだわりです。

 

  自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。

  信頼できる情報に自分の享楽を絡めて考えて、「まあこれだろう」と決める。p140

 

では、勉強の対象や問題意識が際限なく広がるのはどうすればいいのでしょうか。連想的にあげられる対象はいくらでも増やせますが、すべてが自分の気に入る対象ではありません。この場合も、個人的に思い入れのあるもの、好きな対象、長い間つきあってきたものが要素として含まれるなら、そうでないものより、対象を絞り込み、仮の足場とするにはよいものであるということになります。

 

勉強や研究の対象、問題意識は、今流行っているからとか、将来性がありそうだからではなく、自分がそれを研究していて楽しくどこまでも蘊蓄を語れるようなものであることが必要です。

 

これが享楽的なこだわりです。自分のこだわり、ものすごく好きとか逆にものすごく嫌いとか、その一見無意味に見えるものの背後にあるものをあぶりだしてゆけばいいのです。

 

しかし、人間、意外に自分のことを知っているようで知りません。自分で自分を正しく精神分析するのは困難です。当たり前すぎるものは意識の裏側に隠れてしまいがちです。それを客観的に可視化する手段として千葉さんが紹介しているのが、時系列でそのときどきに自分のはまったものを書きだしてゆく「欲望年表」です。

 

変身としての勉強

 

勉強や研究を深く進めてゆくには、言葉との新しい関係を打ち立てることが必要です。

 

どのような分野の勉強であろうと、その際用いられる言葉は、他者の考え方が刻印されたある意味洗脳の手段です。そして、長い時間をかけて、それは私たちの脳や心になじみ、自分と切り離すのが困難になっています。しかし、学問すること、深く勉強することで、それまでとは違った言葉との関係が確立されます。つまり言葉との共犯性から解放されることが可能となるのです。

 

しかし、新しい学問、勉強の言葉を習得することで、それまでの言葉、それまでの周囲との関係に齟齬が生じ始めます。

 

深く学べば学ぶほど、この齟齬は大きくなります。新しい分野の知識、言語の習得とともに、それまでの自分、周囲の言語に洗脳された自分とは違った自分が生まれるからです。

 

そのため、勉強すること、学習することは、変身であり、自己破壊なのです。

 

これが、「第一章 勉強と言語 言語偏重の人になる」の基本のテーゼです。

 

いいことばかりではありません。周囲との齟齬を生じ、それまでのノリをなくしてしまうキモい存在、何かを本気で学ぶ人の悲劇的な運命は古今東西繰り返されてきました。それをどのように解消したらよいのでしょうか?

 

千葉雅也さんは、その先にキモさのアク抜きができ、新しいノリを獲得した存在としての「来たるべきバカ」を想定しながら、読者を勉強の世界、学問の世界へと誘います。それまで浮いていた言葉も、パワーアップして強度化されれば、それに耳を傾ける人が増えてくるでしょう。スターウォーズで言えば、フォースを得た状態、これが「来たるべきバカ」です。

 

『勉強の哲学 来るべきバカのために』を一度読んで難しいと思った人は、以上のラフな見取り図を念頭に置いて読み返せば、本文の内容が一層わかりやすくなるのではないでしょうか。

 

関連ページ:

千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために』
千葉雅也監修『哲子の部屋掘
千葉雅也『別のしかたで ツイッター哲学』
千葉雅也『動きすぎてはいけない』

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.