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ヤマザキマリ×とり・みき『プリニウス 察

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

ヤマザキマリとり・みき合作の『プリニウス』も7巻。いよいよ山場を迎える。

 

巻頭をカラーで飾るのは、ローマの大火。石造りの建物ばかりなら、火事で焼け落ちることも少ないと思われるが、当時のローマは木造の建築物も多く、よく燃えたらしい。一体、誰の仕業なのか。

 

主神ユピテルの仕業なのか。

皇帝ネロは、ユピテル像の前で狂ったように、

ーそうだっ燃やせ!!何もかも燃やし尽くしてしまえっ。この大火でローマは再生する!!

と声を上げる。

 

(『プリニウス察p29)

 

哲学者セネカは、ティゲリウスに対して、

ーお前さんの仕業じゃ…なかろうな?

と口にする。

ネロの叫びを聞いたローマの民は、

すべては皇帝の企みと言い始める。

そして、廃墟と瓦礫の山と化したローマの街中ではさらに放火犯が跋扈する。

キリスト教徒の仕業であると噂する者もいる。

はたして、事の真相は?

 

そのころ、プリニウスの一行は、ローマの騒乱から遠く離れてカルタゴの地にあった。

総督プリニウスに、書記のエウクレス、護衛のフェリクス、謎の子どもと、カラスのフテラ、猫のガイアと名無しのロバからなる一行だ。

彼らの元にも、ローマの大火の報せは伝わる。

一人取り乱すのは、家族をローマに置いてきたフェリクスだった。

 

そして、カルタゴからさらに先のエジプトの地で、広大な砂漠の先に、彼らを待ち受けるのは、クレタ島のクノッソス宮殿が模したと伝えられる巨大な迷宮、ピラミッドだった。

 

ピラミッド内部のダンジョンを、インディージョーンズよろしく、迷い進むうちに、彼らを墓荒らしとみなした追手がかかる。だが、前にたちはだかるのは、無数の蛇。そして、巨大なワニの棲む地下の湖だった。絶体絶命のピンチに立ったプリニウス一行の運命やいかに?

 

(『プリニウス察p151)

 

あたかも狂気が支配するローマを遠ざけるように、アフリカの旅を続けるプリニウス。王妃ポッパエアがネロの無実を証明するため、放火の下手人をあげようとしたあたりから、雲行きが怪しくなる。陰謀は陰謀を呼び、漁夫の利を得ようとする者、闇から闇へと消される者、密告する者、冤罪を受ける者… ローマは輝かしい栄光を捨て、汚濁の中にその歴史を刻もうとしていた。

 

『インディジョーンズ 魔宮の伝説』なのか、『アラビアのロレンス』なのか、はたまた『ベンハー』なのか『クオ・ヴァディス』なのか。無数のハリウッド映画の世界をも反響させ、史実と荒唐無稽なフィクションを絶妙にブレンドしながら、精緻なタッチで極北の漫画を描き続けるのが、『プリニウス』なのである。

 

関連ページ:

ヤマザキマリ×とり・みき『プリニウス此

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ヤマザキマリ×とり・みき『プリニウス 供
ヤマザキマリ×とり・みき『プリニウス 機

落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』【後編】

JUGEMテーマ:自分が読んだ本            文中敬称略    ver.2.01

 

 

落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』【前編】より続く)

 

4.コンピューテーショナル・ダイバーシティ

 

ある言語の単語の意味を、別の言語の語によって、完全に置きかえることはほとんど不可能である。それぞれの言語の語には、歴史の中で蓄積された明示的・暗示的な意味が含まれる。新たに単語を作り出すとしても、その単語はすでにある語や語素の組み合わせであり、元の語にはなかった含意をともなってしまう。落合陽一が、明治期の日本へと遡りながら、翻訳と外来文化の摂取の問題を取り上げるのは、まさにそれが脱近代の根幹に関わる問題だからである。

 

西洋より伝来した概念の多くは、日本の近代が成立した明治時代に発明された単語を用いて訳されている。

 

「文化」「科学」「意識」「思想」「観念」「社会」などは、昔からあった漢語の意味を変えたり、漢字を新しく組み合わせて作られた言葉だ。思考の根底をなす言語が急ごしらえで作られたため不安定である。西洋から伝来したこれらの概念は、西洋近代化の約200年に及ぶ歴史の中で醸成されている。しかしその翻訳語は、明治期の約30年の間に作られた。そのため、抽象的思考の道具とするには、数多くの欠陥を抱えているのだ。p163

 

たとえば英語の「Society」の訳語として採用された「社会」という言葉は、地域の神々の「社」を中心とした「会」合という意味を含むが、天皇制が国家の中心として機能していた戦前の日本での宗教的含意は、今日の日本ではすでに失われている。

 

西洋の「神」相当の概念として「天皇」を置き換えながらの文化的移植は、戦後の文脈ではもはや機能しなくなっているのである。

 

 戦後の日本人は、西洋近代的な概念を日本社会に上手く接合できないことに違和感をいだきながら、「神」概念を、その時々の上部構造――「アメリカ」や「金融資本主義」や「テクノロジー」に置き換えることでやり過ごしてきた。戦後社会の中で、日本語を再び現実に着地させるには、宗教倫理を前提としない言語を再発明するか、あるいは新たな宗教の代替物のもとに言語を作り変えていくしかなかったのではないか。p165

 

「アプリケーションドリブン」などテクノロジーに関する多くの語も、翻訳不可能で、仕方なくカタカナが用いられている。

 

外来の概念に無理に漢字を充てたことにより混乱が生じた例としては、「リアル/バーチャル」(現実 / 仮想)の対がある。「Virtual 」の正しい訳語は「実質」だが、「現実/実質」という対は、対比として機能しない。

 

これに対して、落合陽一が提案するのは、「物質的(Material)/実質的(Virtual)」という対だ。さらに両者に共通する情報を「本質」と考えることができる。

 

デジタルネイチャーの世界では、バーチャルな恋人やバーチャルな飲み会など「物質」と「実質」の間に、別の人物や機械の介入などの物質性の度合いによっていくつもの選択肢が可能となる。

 

こうした実質と物質の複合的な「オルタナティヴ」(選択肢)が、今後は増加するだろう。物質と実質の中間に、コンピュータによる生態系が作られ、そこに多種多様な亜種が出現するのだ。

 

人間と機械の横軸に、物質と実質の縦軸を加えれば、物質的人間(人間ー物質)、ロボット・アンドロイド(機械ー物質)、バーチャル化された人間(人間ー実質)、AI(機械ー実質)の4象限からなるマトリクスの中に、その段階に合わせて無数のオルタナティヴを位置づけることができる。

 

機械と人間との間に生じる無数のオルタナティヴには、「人間の標準」の概念を脱構築する豊かな可能性を持っている。これこそが、コンピューテーショナル・ダイバーシティの世界だ。

 

 「コンピューテーショナル・ダイバーシティ」とは、コンピュータによってはぐくまれた多様性、計算機による人的なリソースの強化や代替が育む多様性だ。機械ー人間の中間地点を取るオルタナティヴは、人間の機能の機械による補完や代替を可能にする。近代の標準的な人間観によって統一された世界から、パラメーター化を前提とした多様な価値基準を容認しうる世界への転換が進むだろう。p175

 

そこでは五体満足であることが「人間の標準」とされる過去の基準はもはや意味をなさず、視力不足を補うセンサーやディスプレイ、腕の欠損を補う高機能な義手といったオルタナティヴの集積が「一人分の人間」をカバーできるまでに、コンピューテーショナル・ダイバーシティは進化してゆく。そして、日本のような高齢社会のソリューションにもつながる。

 

ダイバーシティの考えは、一見民主主義の考えとは対立するように見える。民主主義は均質な標準的人間からなる集合を前提としているからだ。

 

 しかし、社会のダイバーシティが進むほど、多様な人間の分だけ価値観も細分化し、全員に納得度の高い結論を出すことは困難になる。例えば、この社会で民主主義を実現するには、「全体」と「ローカル」を分けて考えた上で、民主主義が機能する規模を調整し、「全体からの距離」を多数決によって決定するという方法が考えられる。p179


最終的には、コミュニケーションのスタイルが言語から現象へと変化すると、人間中心主義による意味論的対立構造も解消可能となる。テクノロジーによって、「標準の人間」を超えたレベルでの人間の解放を目指すべきなのだ。

 

人間が「標準的な人間」であることを前提として民主主義は設計されていたが、デジタルネイチャーの世界では、違いを持った多様な人が、コンピューターとのハイブリッド化することで、標準化することなく、より人間的な生活を送ることが可能となるのである。

 

 

5.未来価値のアービトラージと二極化する社会

 

第5章で提示されるのは、AIの発達がもたらす労働の変化だ。人類全体が労働から解放されるというようなユートピアは実現せず、第一章で示されたBI(ベーシックインカム)とVC(ベンチャーキャピタル)に二極化する方向へと向かう。

 

社会は、機械の指示のもと働く人間と、機械を利用して統計的分布の外れ値を目指しイノベーションに携わる人間に分断される。それによって、人々はAI+BI型の地域と、AI+VC型の地域に分かれて暮らすようになる。PP184-185

 

GoogleやAppleなどのプラットフォーム企業がAIによって得た利益を社会全体に還元することはなく、プラットフォーム利用者は常に売り上げの約3割を自動徴収され、搾取されている。

 

この格差は今後ますます拡大し、世界を労働から解放された<楽園>側と、プラットフォームに徴税される<奴隷>側に二極分化するだろう。p186

 

両者の違いは、AI+BI型が自らの労働力を時間単位で切り売りするのに対し、AI+VC型では時間軸方向にアービトラージ(裁定取引)を行うことで価値を創出するということである。元手はゼロでも、未来で得られる資本を過去へ転換するという考え方だ。

 

通常の物理的なてこの原理(「空間的てこの原理」)を第一のてこの原理とすると、AI+BI型で使われる仕事量に時間をかける「時間的てこの原理」は、第二のてこの原理であり、この「時間方向のアービトラージ」は第三のてこの原理である。

 

 高度に発達した資本主義経済の市場は、実質的にゼロサムゲームとなる。市場全体の富の総量は一定で、誰かが得た富は必ず誰かが失っているというルールだ。しかし「第三のてこ」によって、未来価値を現在に転換できれば、市場全体の冨が拡大し、ゼロサムゲームではなくなる。そして、富の源泉は未来に限らず、月を開拓したり、火星から資源を持ってきてもいい。要するに、新しいフロンティアを見つけ、それを資源と資本の評価軸に乗せることが大事なのだ。pp190-191

 

第三のてこは、トークンエコノミーにより、個人の冨にまで対象として新たな価値創造を行う。ICOやブロックチェーンによって、計算機自然の分散系はプラットフォームに伍する戦いを可能とする。

 

二極化した格差社会は今目の前にあるディストピアだ。プラットフォームの「帝国」が問題である。

 

 今後は、最低限の労働で収入を得られる社会、いわば選択の制限された<楽園>に暮らす層と、それ以外の貧困層に分かれていくだろう。前者では帝国的なプラットフォームが世界中からコミッションを徴収する仕組みによって、人々は働かずに豊かな生活を送ることができる。一方、それ以外の世界では、AIやロボティクスの普及により人間に固有の仕事は大幅に減るが、そこに暮らす人々はシステムに取り込まれて生活することになる。p192

 

さまざまなカテゴリーに分散したデジタルネイチャーの問題意識を整理することに終始していたかに見える落合陽一が闘争的になるのが、第4章のダイバーシティの問題であり、もう一つは「オープンでフェアなゲームをいかに可能にするか」という問題である。

 

  今、我々の世界を支配しているのは、オープンでフェアなゲームではない。オープンでフェアなゲームーーーそれは、かつての黎明期の「IT」にあり、それ以前は黎明期のマスメディアにあったともいわれていいる。現在ではまったく想像もつかないことだが、戦後、マスメディアがオープンネスとフェアネスを体現していた時期があったのだ。そして民主主義の自浄作用を担うものとしてマスメディアは働いた。しかし、それはやがてテレビ的なポピュリズムに変化し、政治と世論の情報複合体を作り出した。その権力構造を覆しうる新しいゲームとしての登場したのがインターネットだったが、現在ではそのインターネットによって新しい帝国が築かれつつある。すなわちGoogle、Apple、Amazon、Facebookといったプラットフォームの勃興だ。現座、フェアでオープンなゲームは、マスメディアの中にもインターネットの中にも見出すのが難しくなっている。pp193-194

 

私たちは<楽園>の側にわたることを夢見るべきだろうか。そのためにはM&Aで「帝国」によって買収されるか、新たなプラットフォームの「帝国」をつくりだすしかなく、ほんの一握りの人しか可能でない道だ。

 

  この帝国がもたらす支配と閉塞に風穴を開け、状況を覆す可能性があるのが、オープンソースの思想だ。実際に、プラットフォームに対抗するための動きは、既に一部で始まっている。p194

 

近代的なIT帝国を超克する試みとして、慶応大学の環境情報学部教授脇田玲が提唱する「ラボドリブン」という概念を落合は挙げている。

 

 研究や開発の自由度が上がっている現在は、小さなコミュニティ、つまり「ラボ(研究室)」をいかに作るかが重要になる。そこはコミッションを徴収する帝国的なプラットフォームとは真逆のオープンな世界観であり、生み出した価値は無償で提供される。p194-195

 

オープンソースやトークンエコノミーといった非中央集権的な最適化による少数のプラットフォームの寡占の超克、「穏やかな世界」の到来も、またデジタルネイチャーの一部なのだ。

 

 

6.全体最適化された世界へ

 

デジタルネイチャーをめぐる長い旅も終わりに近づこうとしている。第6章は、デジタルネイチャーの全体の定式化、落合陽一の主張が集約された白眉の章だ。デジタルネイチャーのもたらす未来像という結論を知りたい人は、(積読になるくらいなら)この章をまず読んでしまった方がいいくらいだ。

 

 計数機的自然、すなわち<デジタルネイチャー>とは、人間中心主義を超えた先にある、テクノロジーの生態系である。そこでは<人類>と<機械>の境目、生物学と情報工学の境界を越境した自然観が構築されるだろう。p204

 

デジタルネイチャーは、「市場という自然」「データのもたらす自然」「三次元的オーディオビジュアルの自然」の三層のレイヤーからなる世界である。

 

ゲノム情報の編集技術が進むと、先天的な障碍や疾患を、遺伝子レベルで解決できるようになる一方で、均質性へと向かい、多様性が失われた結果脆弱性が生じる。新たな多様性は、テクノロジーによる身体や感覚器の拡張によってもたらされる。

 

しだいに人間の身体の一部はデジタルによって置き換えられ、身体の物質性と実質性の境界があいまいになる。家に寝転がったま大半のことはできるようになるかもしれないし、自宅から職場のロボットを動かすだけで仕事を済ませるようになるかもしれない。

 

 人間がロボットを操作する、あるいは、人間が機械に操作される、さらには、仮想の世界で物事が完結するーーーこういった世界では、<物質>と<実質>は、ほとんど等価になる。同時に、現実と虚構の区別もつかなくなるだろう。p208

 

デジタルネイチャーが生み出す変化によって、単に私たちの身体のみならず、精神も大きく変化することになる。

 

 <近代>が作り上げた、自由意志の存在を前提に権利を設定し、それに基づいた幸福を追求する世界は、いずれ終わりを迎える。そして、<人間>や<権利>といった価値観の枠組みから解放された幸福が、コンピュータによる生態系の中で自動的に「自然的に」生成される時代が訪れるだろう。p210

 

個人の「死」の後にも、twitterのbotはつぶやき続け、生前の情報のデータベースから言葉を生成し続けるようにならそれは「死」と言えるだろうか。私たちの考えていた「人間性」の概念も、脱構築されるだろう。

 

人間を「情報」「意識」「身体」の三層で考えると、「情報」はAIによって個人に最適化した結果、「意識」は特定分野での先鋭化が進み、島宇宙化する。そして「身体」は均質化する。その多様化の喪失を補完するものとしては、外部化した知性としてのインターネットが役立つだろう。

 

さらに、人間の生物学的寿命を超越した知性も登場するようになるだろう。そのモデルたりうるのが、二十年ごとの式年遷宮のたびに同じ工法で建て直されるの伊勢神宮の建築だ。

 

伊勢神宮は、ハードウェアのコピーに準拠したことで、人間の知性を超越した永続性を可能にしているのだ。p216

 

章の終わりに、オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』やジョージ・オーウェルの『1984年』が提示する世界像との対比の中で、AIが進化したデジタルネイチャーの世界がユートピアなのか、ディストピアなのかが検討される。

 

もちろん、落合陽一の答えは肯定的だ。

 

 コンピュータがもたらす全体最適化による問題解決、それは全体主義的ではあるが、誰も不幸にすることはない。

 全体最適化による全体主義は、全人類の幸福を追求しうる。

 現在の世界の枠組みを超越するための「新しい<自然>」の発明、これはその始まりに共有されるべき新しいビジョンなのだ。p221

 

『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した侘と寂』は、落合陽一の最高傑作であるだけでなく、2018年というこの時期における日本語による最も高い到達点の一つであり、世界レベルの名著である。こうした言葉を大げさと思う人がいるかもしれないが、それが単なる誇張なのか、実体をともなった正当な評価であるかは、英語や中国語への翻訳、その反響や影響の大きさによって明らかになるだろう。

 

『デジタルネイチャー』の偉大さは、何かの革新的な主張というよりも、科学技術、経済、思想、アートといった多分野にひろがる問題意識を、「デジタルネイチャー(計数機的自然)」の名のもと集約して、統合的に語る場を形成したことにある。賛成者、反対者、継承者、発展者、他分野へのアダプターが何万と生まれ、それが世界的な議論の場を形成するキーワードとなることは間違いない。メディアアーティストや科学者として知られた落合陽一が、さらに一人の思想家として認められることは確かである。

 

それが、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』のような世界的ベストセラーたりうるかどうかは、翻訳のスピードと、海外展開のマネジメントやプロモーションしだい。それだけのポテンシャルを持った本であると言えるだろう。


PS 『デジタルネイチャー』はさらに続く。「終章 思考の立脚点としてのアート、そしてテクノロジー」では落合陽一の初期のメディアアート作品『Human Breadboard』から、最近作の『Morpho Scenery』や、あるいはBS-TBSの番組『夢の鍵 #86』でも紹介された『耳で聞かない音楽会』などが紹介され、そのテーマやメッセージが落合自身によって解説される。

 

『魔法の世紀』で紹介された落合の作品群との大きな違いは、『耳で聞かない音楽会』や『Telewheel Chair』のように、人間の知覚や身体機能を補完するため、アートというよりも福祉や医療などの分野に足を踏み入れた作品がしだいに増えていることだ。それは、そのまま第4章で紹介されたコンピューテーショナル・ダイバーシティの実装であるだろう。補完するというと、あたかも不足部分をコンピュータによって補てんし、「標準」的な人間に近づけるイメージを抱きがちだが、たとえば『耳で聞かない音楽会』の場合、実際に行われているのは音楽を聞く手段として聴覚ではなく視覚と触覚を動員するということであり、新たな選択肢(オルタナティヴ)の発明なのだ。この場合、標準からの偏差がそれによって拡大することはあっても、縮小することはない。また、この新しい体験から健常者が排除されることもない。

 

我々はデジタルネイチャーの向こうに、高齢者、身体障碍者と健常者という分類がなく、個々人が多様性を維持しながらも快適に過ごせる社会を目指している。p245

 

重要なのは、一つ一つのアート作品そのものがデジタルネイチャーの生成のプロセスとなっていることである。そのたびに新しい技術が生まれ、見えなかったものが形をとって、つまり実装されて現れる。手を動かし、モノを作ることの重要性は、一つの作品が現れるたびに、ビジョンが共有され、主張は強化され、文脈がより説得力を持って語れるようになるということなのだ。

 

(…)これからは実践者としての価値が今後、思想と共に重要になるだろう。考えながら手を動かし、思想を語り、波を作る必要がある。(p276)

 

終章に続く「あとがき」では、『Silver Floats』のステイトメントとロバート・キンセル、マーニー・ぺイヴァンの『YouTube革命 メディアを変える挑戦者たち』の解説を再構成しながら、デジタルネイチャーの現在を実例とともに語っている。

 

また、第2章、第3章、第5章の末尾で挿入されるコラム「魔術化とフェイクニュース」「日本戦後デジタルカルチャー史を比較する」「デジタルネイチャーの学習論」は、本来本文中にあった部分を、文脈整理上、分離独立させたものであり、それぞれに語るべき価値のある文章(だがここでは割愛)、ほどよい長さでまとまっているので(本文ともども)高校や大学の入試問題にも出題されるかもしれない。

 

  Kindle版

落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』【前編】

 

『情熱大陸 #978 「科学者・落合陽一」』スーパーダイジェスト

ロバート・キンセル、マーニー・ぺイヴァン『YouTube革命 メディアを変える挑戦者たち』

落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』【前編】

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 

 

心地よく流れ出す文章は、SF小説の冒頭のようだ。新たなテクノロジーによって覆われた未来社会における日常生活のイメージを、人類はいくたび描いてきたことだろう。だが、大きな違いはそれがすでに私たちの周りに現存しているということだ。それを、当たり前のものとして受け入れてしまっている日常の表層を、テクノロジーの言葉によって描写しながら、落合陽一が再提示するとき、この奇妙な言語は生まれる。

 

  静止しているようにも感じられるが、速度計によれば、確かに時速40km。淡い乳液のようなミー散乱の中を、僕は走っている。空間のいたるところで発生する光の散乱は、ハイビームとその影による直線を空気中の水粒子に描き出し、色を持たないフォトンの影を黒色のビームのように錯覚させる。山中の冷ややかな空気の中、僕は可視光の海の中にいる。均一に濁った、それでいて波を感じないほどに穏やかな、さらさらとした海だ。p11

 

デジタルネイチャー(計算機自然)は、すでに私たちの周辺で、結晶化を始め、たえず進化しつつある。より複雑で、高度なものへと、不可視なブラックボックスをともなった魔法めいたものへと変容しつつある。けれども、主体と客体、人間と自然とのあいだに引き裂かれた形而上学の伝統にルーツを持つ西洋近代知の限界ゆえに、それを記述する言語はこのテクノロジーの変化に追いついていない。そこに落合陽一に苛立ちがあり、この『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』を執筆するモチベーションも存在するのだろう。

 

人びとは、ある時はユートピア的に、あるときはディストピア的に、コンピュータテクノロジーが日常生活の隅々にまで行き渡った世界像を、フィクションとしてあるいは社会理論として描き続けてきたが、そこで起こっている事象を、正しくとらえ表現する言語をまだ手に入れてはいない。そこで生じていることは、単なる機械の人間生活への侵入や支配ではなく、人間の知覚と思考の本質的な変容なのだ。

 

一言でいえば、コンピュータテクノロジーとともに人間が生み出した数々のデバイス、モノは、新たな自然となって、人間以前の自然と区別不可能な存在として、人間と共存するどころか、人間そのものの一部となって共生・融合しながら、進化し続けるということなのだ。

 

  遠からぬ未来、人類はフォトンと空気振動が媒介するネットワークへと接続される。それはイルカやクジラといった海洋哺乳類が、超音波による音響通信とエコーロケーションを、<海>の媒介によって可能にしているのと、よく似ている。そのとき人類は、視聴覚が完全に被覆された<デジタルの自然>へと至るのだ。p15

 

最先端の科学的知見に基づいて語られるデジタルネイチャーの世界だが、その着地点は<近代>以前の東洋の世界をヒントにしていることが告知される。ドイツ語によるフリードリッヒ・フォン・シラーの詩句に続くのは、荘子の『斉物論』であり、芭蕉の「古池や」の句なのだ。

 

  <自然>と<デジタル>の融合。寂びたデジタルが行き着く<新たな自然>。それは東洋文明が育んだ感性を端緒としたイノベーションになるはずだ。唯一神を持たず、近代的な<主体>や<個人>の概念に囚われない古典から接続された東洋的エコシステムは、思考や情報のトランスフォームをさまざまな形で可能にする。p14

 

けれども、このデジタルネイチャーをめぐる冒険は、同時に西洋のさまざまな国と時代へと旅することだろう。第一章では、19世紀末から20世紀初頭のアメリカという発明の国へ、第二章では20世紀後半のアメリカという科学の国へ、そして第三章では19世紀から20世紀初頭のドイツという社会科学の国へと旅しながら、そこで発見した知見を現在に結びつけることで「来たるべき新世界」を予見するという構成をとっている。これら三つの章は、いわばデジタルネイチャーを発見するための<バック・トゥー・ザ・フューチャー>なのだ。

 

 

1. デジタルネイチャーとは何か 

 

コンピューターテクノロジーが高解像度化し、世界のあらゆる事象を記述するようになると、それまで当たり前だった「自然」「人工」の対立軸にゆらぎが生じる。データの上で区別がつかなくなるのである。人間を含むあらゆる情報がコンピュータの中にある自然として存在するようになる。これこそが、デジタルネイチャーの世界である。

 

  人間による人工物として発明されたコンピュータが、その内部に人間の解像度に十分な自然を再現することで、<人工>と、<自然>の両方を再帰的に飲み込みつつあるのだ。p39

 

並行して扱うべき問題として、脱近代の問題がある。フランス革命以来の「近代」が定義するのは、「人間」「社会」「国家」といった枠組みであり、耐用年数を超えたこの「近代」の枠組みの超克は度々語られてきたが、決定打となるものはなかった。落合陽一は、近代をイデオロギーによってではなく、テクノロジーの側面から乗り越えようとする。資本主義という経済的イデオロギーや市民社会という政治的イデオロギーが成立した背景には、産業革命というテクノロジーの刷新があったからである。

 

テクノロジーの面から、近代を考えるために、最初に落合が取り上げるのはトーマス・エジソン。あまりに未来的であるために当時はビジネスチャンスに結びつけることのできなかった彼の発明の多くは、今日ようやく実用化されつつある。発明家というよりもメディアアーチストと呼ぶにふさわしいエジソンの足跡をたどることによって、近代を超えるヒントを落合陽一は見つけようとするのである。

 

 そしてエジソンは、そのメディアアーティスト性ゆえに、<近代>の創始者であると同時に、<近代>を超えるイマジネーションの持ち主でもあった。p42

 

たとえば、今日のVRデバイスに相当する「キネトスコープ」はリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」によって取って代わられ、その後の世界の趨勢となることはなかった。オキュラスリフトなどのVRデバイスがトレンドとなるまでに約120年を要したのである。蓄音機を発明した際も、エジソンが想定したのは、口述筆記目的や、死者の発言の記録、授業の録音など、時間差コミュニケーションに関わるものであり、演奏の録音には消極的だった。生前脚光を浴びなかったエジソンの考え方は、はるか未来を先取りするもので、それゆえ近代の枠組みの外側を考えるのに役立つのである。

 

エジソンと並んで重要なのが、自動車王ヘンリー・フォードである。エジソンとフォードは、電気自動車の試験運用を行い、時速40キロ、一回の充電での連続走行距離100キロという記録を残しているが、電気自動車ではなくガソリン車にシフトしたのはフォードの類稀なる経営感覚によるものだった。

 

 エジソンの発明とフォードの量産。この産業の両輪が揃うことによって、メーカーという概念が生まれ、電化製品や自動車の大量生産が進んだことで、マス(大衆)という概念が一般化し、バウハウスを経て、デザインという発想が生まれた。p50

 

ここで生まれた境界を、「エジソン=フォード境界」と落合は呼ぶ。私たちの周囲の製品は、性能こそ向上したものの、その道具としての本質的価値は変わってはいない。しかし、「近代」を定義するこの制約を超える技術が次々に現れている。その特徴は「体験の自動化・三次元化」であり、「生産の個別化」である。

 

近代社会は、規格化された立方体を積み上げピラミッドを積み上げようとしてきたが、コンピュータがあれば、リンゴやバナナのような不揃いな物体でも、崩れることなくピラミッドを積み上げることが可能になる。

 

徳川時代の江戸の町も、そのゴミを多様な素材として生かす方法など、近代以前の多様性を考えるモデルとして機能する。

 

近代を超える脱近代社会の可能性は、ノーマライゼーションをパーソナライゼーションへと置き換えるコンピュータによって開かれる。落合陽一はこの局面を見事に要約している。

 

 近代は「人間」という概念を発明し、産業革命に合わせ、産業の要請から、人々をその基準に画一化すること(ノーマライズ)で個体能力のばらつきによるコミュニケーションや前提知識のなどの非効率性を乗り越え、機械との親和性を高めることで生産力を飛躍的に増大させた。しかし、現在はテクノロジーの進化によって、低いコストで個別化(パーソナライズ)できる。前近代的な多様性を維持したまま、同時に全体が効率化された社会、それは、コンピューテーショナルな価値の算定と交換、環境に合わせた最適化問題解決によって初めて可能になる。p57

 

「近代以前の多様性が、近代以降の効率性や合理性を保ったまま、コンピュータの支援によって実現される」デジタルネイチャー的世界での人々の生活は、コンピュータの管理下で安定したBI(ベーシックインカム)的生き方と、リスクを引き受けながらイノベーションをもたらすVC(ベンチャーキャピタル)的な生き方へと二極化することになる。

 

「人間」と「労働」のありかたも再定義される。機械が単純労働を代行するようになると、人間に残されるのは、知的な頭脳労働だ。しかし、集中力が必要な頭脳労働では、単純な時間計算が通用しない。

 

  今日、知的生産に携わる人間は、時間労働によって身体的に疲弊するのではなく、頭脳の処理による負荷で疲弊している。問題は「時間」よりも「演算ストレス」であり、近代が「タイムマネジメントの時代」であったのに対して、現代は「ストレスマネジメント」の時代なのだ。そこで求められるのは、ストレスをマインドセットから除外し、いかにストレスフリーの環境で働くかという発想だ。p64

 

以下、落合陽一の『これからの世界をつくる仲間たちへ』や『超AI時代の生存戦略』ですでに語られたコンピュータにないものとしてのモチベーションの問題や「ワークアズライフ」の考え方へと接合される。

 

 

2.人間機械論、ユビキタス、東洋的なもの

 

第二章で落合陽一がまず取り上げるのは、主著『サイバネティクス」で人間と機械の区別があいまいになる時代を予見したノーバート・ウィーナーだ。ウィーナーは「出力された結果を入力側に戻して目標値に近づける」フィードバック制御の考えの提唱者として知られる。ウィーナーは、AIの登場も予見し、その方法論も考案したが、インターネットのない時代の技術的制約があった。「並列計算の高速化」「ビッグデータ」「アルゴリズムの改良」といった三つのブレイクスルーを手に入れた私たちは、ウィーナーの考えをさらに先へと進めることができる。

 

 人間とプログラムのネットワーク上の入出力行為は、その後の数理処理的には等価であり、両者にデータ価値の差は小さい、というのがサイバネティクスを内挿すると現れる発想だ。そして、数理モデルと実装が融合することによって、計算機上の人為(人間の為すこと)はモデリング可能になり、人間とコンピュータはある程度システムの中で交換され、そのすべてがインターネットに接続されている、という世界観は、既に実現しつつある。p82

 

ウィーナー亡き後、あらゆるモノがコンピュータ化し、相互に情報通信することで、人間の周囲の環境そのものが進化していく「ユビキタス」という考え方を提唱したのが、マーク・ワイザーだ。「デジタルネイチャー」は、ウィーナーのサイバネティクスとワイザーのユビキタスを継承発展させた思想なのだ。

 

つまり、西洋近代の人間中心主義による「<人間>の超人化」と「人間のための環境(モノ)の進化」という発想に対して、「<人間>の脱構築」と「環境的知能の全体最適化」、つまり「<自然>としてのコンピュータ」のエコシステムの構築を目指し、その超自然にそれぞれ不可分に内包されるのがデジタルネイチャーである。p87

 

コンピュータと人間の間の相互通信によって生まれる場が「コンピューテーショナル・フィールド」だ。それは華厳(経)の言葉で、「理事無碍(万物はひとまとまりであり相互に縁起によって関連している)」と呼ばれるような世界である。その際、波動(ホログラム)と物質(アナログ装置)と知能(デジタル演算)の三重の関係性の中で、人間と機械を同一なものとして扱うことができる。理事無碍に関しては、以下落合陽一のメディア・アートの近作にも通じる解説がなされるが、簡略な要約は不可能であるため割愛する。

 

コンピュータ技術の進化は著しく、それまで不可能だった光・音・磁場・空気・電波に至るまで情報化が可能となり、それらはスマートフォンやSiri、Amazon Echoにも応用されている。その結果、私たちはコンピュータによって処理された自然環境を生きるようになっている。その先にあるのは、スマホが個人のさまざまな生活情報記録するような、コンピュータが人類の補集合となる世界である。さらにコンピュータが会話のイントネーションやニュアンスを補完する世界、言語以外の手段でコミュニケーションを行う世界が来るだろう。

 

人間のコミュニケーションの限界は、言語の限界である。言語を介する限り、その枠組みに縛られ、元の現象にあった多くの情報が失われてしまう。

 

 言語で記述した瞬間に、その枠組みに規定され、その裏にある非論理的な現象空間、生のデータで表現されるものに接続する回路が無意識になる。「現象 to 現象」の多大な可能性が、言語化した瞬間に人間に理解不可能な空間へと縮減されてしまうのだ。pp104-105

 

しかし、ARやVRの進歩で、コミュニケーションの手段が進化すれば、言語を介さずに空間そのものを伝えることができる。イルカやクジラのように、「現象 to 現象」のコミュニケーションが可能となるのである。『情熱大陸 科学社・落合陽一』の最後で紹介されたイルカのコミュニケーション技術の研究も、このような未来的ビジョンのもとに位置づけられるのである。

 

 

3.オープンソースの倫理と資本主義の精神

 

共産主義という資本主義の富の偏在を超克する試みが失敗する一方で、インターネットの登場を契機とした資本主義の変貌が顕著である。ベーシックインカム、オープンソース、クラウドファンディング、ブロックチェーンなど人間の信頼を可視化する評価経済や非中央集権型コンピューティングによるエコシステムの枠組みが広がりつつある。第三章では、<近代>における社会構造を読みといたカール・マルクスやマックス・ウェーバーの思想に立ち返りながら、このような最近のエコシステムが社会構造をどのように更新しようとするのかを考察する。

 

弁証法に基づく唯物史観を説いたマルクスは政治的上部構造は、経済的下部構造により規定されると主張し、ウェーバーは資本主義に形成の過程によるプロテスタンティズムの役割を強調した。その延長上に、落合陽一はオープンソースの精神を置こうとする。

 

(…)デジタルネイチャー化する世界において、このプロテスタンティズムに対応する共通プロトコルとしてのイデオロギーに与するのはオープンソースの精神である。この精神が資本主義の変化を促す際に、重要な役割を果たすのはブロックチェーンなどの価値の保証のためのテクノロジーである。このときマルクスの言う下部構造とはテクノロジーそのものである。つまり、テクノロジーとそれを受容する人間側の相互作用によって、現代の資本主義は変化しつつある。テクノロジーと人間は新たな生態系を為しているといえるのだ。p121

 

今日インターネットサーバーの通信プロトコルに関する基礎技術のほとんどを占めるオープンソースは、開発者の著作権表記を保持しつつも、誰でも改変・再配布可能な仕組みである。ソースコードの公開、改変、配布の自由は、一種のイデオロギーとして世界中の開発者に共有されている。オープンソースはスタートアップのベンチャーにとってはマネタイズの障壁になるが、いったんインフラが発達すると、エコシステムの活発化につながる。資本主義の精神を推進するものは、もはやプロテスタンティズムではなく、プラットフォームから次のプラットフォームへと資本の再投下をもたらすオープンソースの精神に他ならない。

 

 そして今日においては、プロテスタンティズム的な宗教的支柱の代わりにあるもの、我々の社会の下部構造としての資本主義を、さらにその外側から規定しているのは、「オープンソースの倫理」だ。その相補的エコシステムが自然化している。p126

 

しかし、オープンソースが拡大した世界は、実際には、共産主義的になるどころか、イノベーションが短期間でリセットされ、常にゼロベースの競争を強いられる市場原理の極限の世界となっている。たとえば、一時商品たりえた「絵文字アプリ」がプラットフォーム上で標準搭載されると、社会的インフラの「下駄」の一部となり、その商品価値を失う。このプロセスをそのまま延長してゆくと、20世紀の全体主義とは異なる、新たな全体主義に行き着くのだと落合陽一は言う。

 

オープン化したソフトウェアがもたらした、万人に開かれた知識と技術の「下駄」。それに追従する人間が多いと、インターネットは全体主義的(機械知能と人間知能の相互干渉による全体最適化システム)になっていく。これはレイ・カーツワイルの言った技術的特異点(Techinological Singularity)に通じる議論だ。新しい知見はすぐに普及してその価値を失う。新技術の登場とコモディティ化が短期間で繰り返される社会となっていくだろう。p132

 

オープンソースの思想がそれほど力を持たなかった場合には、従来の資本主義の道を歩み、知識や技術は集中され、プラットフォームは拡大を続けることになる。ベーシックインカムが意味を持つのは、オープンソースが支配的となった社会においてのみである。

 

現在のところ、拮抗している「オープンソースの精神」と「資本主義の精神」だが、その行き着く先は、オープンソースの過剰によってバブル崩壊のような信用低下をもたらすこともあるし、またAndoroidoやApp Storeなど社会的インフラとなったプラットフォームを、資本に依存する状態の不安定さも無視できない。紆余曲折を経たその先に予想されるのは、トークンエコノミーやブロックチェーンの利用による非中央集権型のオープンソース資本主義である。

 

オープンソースは、単にインターネットやコンピュータの世界だけでなく、ゲノム編集やiPS細胞の製造といったバイオの分野やハードウェアの分野など、他の分野にも拡大しつつある。

 

 こうした変化は、オープンソースの思想が社会全体に行き渡り、さまざまな分野で知的なインフラの整備が進みつつあることを示している。資本主義から分化したオープンソースが下部構造となることで、資本主義ーオープンソースの相互作用が形成される現象が、あらゆる情報産業でも生まれ始めているのだ。p142

 

オープンソースの普及によって、新たな発明や発見の実用化は早まり、トークンエコノミーやブロックチェーンの発達で、資金調達は容易となり、株式市場への依存度も低下する。その先にはあるのは、「人間知能と機械知能の全体最適化」による新たな全体主義である。

 

 いずれあらゆる価値は、分散型の信頼システムとトークンエコノミーの価値交換手法によって技術に対しての投機マネーと接続され、オープンソースと資本主義の対立は、より密な経済的連携によって安定した構造へと軟着陸するだろう。それは新しい全体主義の形であり、そこでは西洋的なピラミッドではない、東洋的再帰構造からなる「回転系自然なエコシステム」が形成されるはずだ。p148

 

インターネット内外でのオープンソースの倫理は、トークンエコノミーやブロックチェーンなどの分散型経済システムとの相乗作用の中、経済においてデジタルネイチャー(計数機自然)的な環境を形成するのである。

 

続く第四章では、明治期に行われた「近代」を規定する概念語の再検討より始め、デジタルネイチャー化がもたらす人間の身体性と倫理観の変化、さらには民主主義の未来を考察することになる。(【後編】に続く)

 

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関連ページ:

落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』【後編】

 

『情熱大陸 #978 「科学者・落合陽一」』スーパーダイジェスト

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