つぶやきコミューン

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会田誠『「色ざんげ」が書けなくて』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略  ver.1.01

 

9月28日までの期間限定で、40%OFFの292円

 

幻冬舎の電子書籍レーベル幻冬舎plus+は、著者やタイトルは面白そうでつい買いそうになるタイトルが多いのだが、いざ買ってみると30分とたたぬうちに読み終わって食い足りないということもしばしばだ。要点も、三つくらい拾えば十分で、レビューを書くとほとんどネタばれになりかねない。それゆえなかなか取り上げることが難しいレーベルなのである。

 

そんな中で、がっつりと読みごたえがあり、ディープな内容ゆえにいささか長いとさえ感じるのが、美術家会田誠の『「色ざんげ」がかけなくて』である。3章程度が相場の幻冬舎plusの中で「色ざんげが書けなくて」(その一)から(その九)まであり、話題も「オナニー」「セックス」「同性愛」「ポルノ」など多岐にわたる。

 

絵画の中で性的表現が多いと一般に考えられる会田だが、なぜ『色ざんげ』ではなく、『「色ざんげ」が書けなくて』なのか。『色ざんげ』とは、いわば性的体験の告白である。そして、性的体験の告白、異性であれ同性であれ、相手を伴うのが普通である。

 

 しかしそれはおいそれと書けないわけです。なぜなら恋愛とセックスには相手がいて、その相手の人生は、自分とパラレルにまだ現在進行形だから、自分一人が恥をかく分には構わないので、オナニーの話はノリノリで書けるけど、セックスとなると、いろいろとややこしい事態が発生する危険性は大なわけです。

 

だから、死後何十年か経って公開される形でもない限り、やはり会田誠をしても、「色ざんげ」は書けないということになる。

 

では、この『「色ざんげ」が書けなくて』は一体どのような文章かというと、一言で言えば妄想的性愛論、中でも中心となるのが、通常セックスの代用品とみなされるオナニーの価値の擁護、称揚である。

 

会田誠は、マスターベーション、千摺り、自慰、手淫といった、他のもろもろの名称をそれぞれに理由をあげながら斥け、この名称にこだわる。

 

 すなわち、僕は、ドイツ語から来た「オナニー」という言葉の語感を愛しており、行為としては同じものを指すにもかかわらず、それ以外の名称が愛せない、という不思議な現象があります(…)

 

オナニーという響きの中には、「女になる」世界がある。男性の場合、想像の中で「女になる」ことなしにオナニーは成立しない。

 

オナニーをしながら好きな子=Xちゃんのことを想っていると、そのうち自分という“みっともない肉体を伴った男”の存在はイマジネーションの世界から消え、この世(宇宙)は“可愛いXちゃんだけ”になります。つまり、気がつくと自分がXちゃんになっているのです。

 

男と女の性が混然一体となっているところに、会田誠はオナニーの至上の価値を認める。

 

男性性/女性性という二項対立がなく、すべてが溶け合って渾然一体となった世界。何の過不足もなく、百パーセント充足した世界。その完全なる平穏は、個人のイマジネーションの中においてはニルバーナであり、千年王国であります。

 

そして、アンチ・リアル・セックスとしてのオナニーに、セックスの代用品ではなく、独立した至高の価値を、人生の目的さえも認めるのである。

 

多くの(主に日本のサブカル/オタク界隈の)識者が指摘する通り、オナニーはセックスの代替品などではけしてなく、まさしく人生の目的そのものであります。

 

さらに、性表現と実際の犯罪的性行為を結びつけ、危険視する見方に関しても与することがない。余りに、荒唐無稽で、現実離れした二次元の表現が、犯罪に直結するということがあるだろうか。

 

妄想が荒唐無稽になればなるほど、リアル空間から隔絶されてゆくという、純粋オナニーの妄想の基本原理も知らないんですか?

 

性犯罪は、こうした性表現によって引き起こされるのではなく、別の衝動によって引き起こされるのではないか。

 

逆に、会田誠は二次元的な性表現に、地球レベルでの人口問題のソリューションさえ見い出そうとする。

 

 僕は時々夢想します(とはいえよっぽどヒマな時に限りますが)―――いつの日か、アフリカの男たちが非実在二次元美少女にハアハアして、ついでに日本から伝播したコミュ障や引きこもりにも患り、気がつけば人口増加は抑止され、血なまぐさい部族間抗争をやる闘争心も消え失せ……とにかくそんなこんなでいろいろとあった末、地球全体が現代日本のような腑抜けた平和に包まれることを。

 

『「色ざんげ」が書けなくて』は、あくまで男性サイドの性的妄想が中心であり、それゆえ人類半分にあてはまる視点からの考察でしかないが、そこでは多くの人が抱えながらも、日の目を見ることのない性的妄想の数々が披歴されている。キリスト教世界のような罪の意識による縛りこそないものの、オナニーはセックスよりも格好悪い弱者の専売特許のような考え方が、男性の中に根づいているからだ。しかし、そこには思春期より始まる等身大の私たちの脳内の肖像画があることは確かである。

 

スタイリッシュで、格好いいセックスではなく、卑小な自分の姿を見つめることになる、リアルな性的妄想の数々を告白する究極の正直さこそ、『「色ざんげ」が書けなくて』の最大の美点である。

 

関連ページ:

会田誠『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』 
会田誠『青春と変態』

出口治明『教養は児童書で学べ』

JUGEMテーマ:自分が読んだ本 文中敬称略

 


『教養は児童書で学べ』(光文社新書)は、稀代の読書家出口治明の著作の中でも、ちょっと変わっているけれど、素敵な読書案内だ。この本の中で、章題として取り上げられてのは十冊の児童書。その大半は、『西遊記』や『アラビアン・ナイト』、『アンデルセン童話』のような古典や、映画やミュージカルにもなった『ナルニア国物語』や『モモ』のような世界的な名作だし、『はらぺこあおむし』や『エルマーの冒険』も児童書の中でもロングセラーとなっている名作だ。10の章題は、次のとおり。タイトルとともに、それぞれの本に読み取ることのできるテーマがあらかめて示されている。

 

第1章 『はらぺこあおむし』には宇宙がぜんぶ詰まっている。

第2章   『西遊記』は、ハチャメチャだけど愉快痛快。

第3章 『アラビアン・ナイト』でわかる、アラブ人ってほんとにすごい。

第4章 どんな人生にも雨の日があるから『アンデルセン童話』を読む。

第5章 『さかさ町』で頭と心をやわらかくする。

第6章 『エルマーのぼうけん』には、こどもの「大好き」がテンコ盛り。

第7章 『せいめいのれきし』で気づく、いまを生きることの大切さ。

第8章 毒があるから心に残る『ギルガメシュ王ものがたり』。

第9章 「効率ばかり追って幸せですか?」と『モモ』は問いかける。
第10章 大人も子供も『ナルニア国物語』を読もう。

 

児童書について語るのは、大人向けの一般書よりも難しい。単にその本に含まれる知識や情報を整理して語ればよいわけではないからだ。この中で、知識に還元できるような内容の本は、地球上の生物の歴史、そして人類の歴史をボーダーレスで語った『せいめいのれきし』くらいで、残り9冊はすべて物語である。あらすじを紹介するだけだならあっという間に終わってしまうものもあるが、それでは面白さを伝えたことにはならない。これらの本の中では、文字だけでなく、多くの絵が用いられ、そこにも多くの情報やメッセージが込められている。

 

児童書を読み解くとは、単に知識に還元できる情報を要約するのではなく、感性や想像力を駆使し、文字と絵の背後にある世界、いわゆる暗黙知の世界を同時に語ることである。そこで、古今東西万巻の書を読破したことによって得られた著者の広範な教養が総動員される。

 

ここで取り上げられた本は、それぞれに異なるバックグラウンドを持っている。たとえば、『西遊記』の荒唐無稽な物語の中には、日本人とは全く異なる中国人の価値観が示されている。

 

 仲間と旅する物語といえば、人気漫画の『ワンピース』(集英社)がありますが、『西遊記』は対極です。『ワンピース』は仲間をとても大切にします。だけど、美しい友情もあまり長く続くと退屈になりませんか。俺さえよければ、というほうがおもしろいのです。

 戦後の日本の製造業の工場モデルの下、長時間労働で生産性を高めることを優先してきましたから、仲間との協調性をとても大切にします。『西遊記』も日本で製作されたドラマや映画のなかには、日本人好みに脚色されたものもあるかもしれません。ですが、原作には協調性のかけらもありませんし、礼儀というのもまるっきり無視しています。p44

 

『西遊記』を日本で映画やテレビドラマ化したり、漫画やアニメ化した試みは非常に多いが、多かれ少なかれ、チームプレイ重視の日本人の価値観にそって作り直され、原作にある面白さはごっそり抜けていることも指摘されている。つまり、それらの翻案的作品を見たり、読んだりして『西遊記』の世界がすべてわかったと考えるのは誤りなのだ。

 

『アラビアン・ナイト』に含まれる多くの物語の中でも、遊牧民であるアラブの人々やイスラム圏の価値観が示されている。

 

 遊牧民には商人が多い。彼等の暮らしは、商売することで成り立っています。イスラム教は「商人の宗教」と言われていますが、『アラビアン・ナイト』にも農民はあまり出てきません。まさに商人の世界が中心です。

 『船乗りシンドバッドの冒険』は、海の商人の冒険の物語です。当時のアラブ人は、危険をおかしながら海を渡って、インドネシアやインドといった国々で商売をしていたのです。なぜインドネシアがイスラム圏なのかと、不思議に思う人もいるようですが、理由は簡単で、昔アラブ人がたくさんきたからです。彼らが商売をして、いろいろなものを持ってきたので、現地の人々が勝手に「これはええな」と思ってイスラム教徒になった。こうしてアラブの人たちは、グローバルなネットワークを築いたのです。pp66-67

 

小学校高学年や中学生でもわかる言葉で、『アラビアン・ナイト』の背景となる世界の見取り図が紹介されている。『教養は児童書で学べ』は文字通り一を読んで十を知ることのできる本なのだ。

 

『教養は児童書で学べ』では、物語の背景となる世界についての広範な知識が語られるだけでなく、作者の生涯の伝記的事実や作品の成立事情も語られる。

 

高等教育を受けたグリム兄弟とは対照的に、貧しい家庭出身のアンデルセンは独学で知識を身につけた人物である。『即興詩人』というベストセラーは出すものの、上流階級の仲間入りはできず、女性にももてなかった。それが作品世界にも直結しているという。

 

 彼はいわゆるエリートコースを歩んでいませんし、性格もすごく変わっていました。ハンサムでもなく女性にもモテない。生涯、結婚をしていません。

 だからこそ、社会の歪みにすごく敏感だったはずです。貧しい人の苦悩や友だちがいない孤独といった社会の影がよく見えていたのでしょう。

 こんな人が創作童話を書いたら、とても純粋な物語になります。『アラビアン・ナイト』のように、ひたすら健康で、明るくて、元気で、金儲けに精を出し、異性を追いかけるというような勢いのある物語とは真逆です。p99

 

ルース・スタイルス・ガネットの『エルマーの冒険』では、その本が成り立つまでのプロセスの大変さも語られる。

 

 絵を担当したのは、先に書いた通り、義母で、かなりの時間をかけています。ルースの夫のピーターは、画家ですが、文字を美しくデザインしたように描くカリグラフィーも得意。地図の絵は、義母のルースが描き、そこに入っている文字はピーターの手によるもの。家族のチームワークが結実した見事なシリーズです。日本でこの本を出版した福音館書店は、日本語の字体にもかなり気を使って再現したのではないでしょうか。pp167-168

 

ここまで情報を与えられれば、本の中の絵だけでなく、字のデザインに対しても読者は無関心ではいられなくなるだろう。

 

8年の歳月をかけたバージニア・リー・バートンの『せいめいのれきし』も、科学の進歩に合わせて、その記述が大きく改められたが、本書では二つのバージョンを対照させながら、本が変わらなければいけなかった理由も説明している。

 

 もう一つ注目してほしいのは、「鳥類に進化したなかまをのぞけば、博物館で化石のすがたでしか、恐竜にであうことはありません」の部分です。旧版にはなかった、「鳥類に進化したなかまをのぞけば」という記述が加わり、はっきりと鳥類が恐竜の子孫だと明記しています。現在では、鳥類が恐竜の子孫だということは定説になっているのです。pp183-184

 

また、冒頭を飾る『はらぺこあおむし』では、本に穴が開いていたり、ページの大きさが違ったりと独自の工夫が紹介される。

 

『教養は児童書で学べ』のどの章も、それぞれに切り口が少しずつ異なり、著者が三本柱とする「本と旅と人」から得た豊かな知識や教養が動員され、本の背後にその何倍もの世界が垣間見られるように書かれているのだ。

 

児童書を語る上で、忘れてはならないのは、子どもの豊かな感性や想像力、センス・オブ・ワンダーについてである。たとえば、想像力について、『ナルニア王国ものがたり』の通路となる衣装箪笥を挙げながら、こう語っている。

 

残念ながら人間は不器用なので、想像の翼を働かせようとしても、テレビのスイッチを入れるようにパッと切り替わるものではありません。想像の世界との間には不思議な通路が必要なのです。

 たとえば桃源郷は、谷間の細い道を進んだ先にあります。異界へ入るためには、通路が必要なのです。その通路は何気ないところにあります。典型的なケースが、この衣装だんすです。扉を開くと異世界へつながっていくというのは、子どもにもすごくわかりやすくて、興味をひきます。

 こどもはかくれんぼのときに、よくたんすにかくれることがあります。もしかするとここから違う世界に行けるかもしれない、そういう物語に子どもはすごく惹かれやすいのです。p263

 

こうした文章は、単に学者的な博識の人物には書けないだろう。少年のころの、やわらかな感性や想像力をそのまま持ち続けていてこそ書ける文章なのである。

 

『教養は児童書で学べ』で紹介されているのは、実は章題になっている10冊だけではない。「はじめに」とそれぞれの章の末尾に、6作ずつ66冊の本が、短い解説とともに紹介されている。つまり、つごう76冊の本の情報が本書には含まれているのだ。その中には、子ども向けの本として誰もが紹介したくなるような『星の王子さま』『ふしぎの国のアリス』や、『ハリーポッターと賢者の石』『ゲド戦記』『指輪物語』のようなファンタジーの傑作、さらにはヤマザキマリととり・みきのコミック『プリニウス』の以外にも、多くの見知らぬタイトルの本が含まれる。

 

『教養は児童書で学べ』は、出口治明の著書の中でも一番楽しい一冊であり、大人にとっても子どもにとっても、読書の多面的なアプローチや楽しさを知ることのできる名著である。

 Kindle版

 

PS 個人的には十作の中でいちばん面白いと感じたのは、物理的に上下が逆なだけでなく、子どもがはたらき大人が遊ぶなどすべてがこの世界とは逆の『さかさ町』と友情や恋、別離や死など人生のすべてが含まれる『ギルガメッシュ王のものがたり』であり、さっそく原作を取り寄せることにした。

 

関連ページ:

出口治明・半藤一利『世界史としての日本史』

出口治明『人生を面白くする本物の教養』
出口治明『ビジネスに効く最強の「読書」』
出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」』

 

伊坂幸太郎『AX』

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伊坂幸太郎『AX』(角川書店)は、『グラスホッパー』『マリアビートル』に続く、<殺し屋シリーズ>の第三弾である。複数の殺し屋が並行的に跋扈する前二作と比べると、『AX』の主人公ははっきりしている。恐妻家の殺し屋である。『AX』は、全編を通じて兜および彼の家族である妻と、息子の克己の物語となっている。

 

殺し屋も人の子である。完全な一匹狼で、独身を貫く殺し屋もいるだろう。家族は、敵に知られればウイークポイントになる。だが、兜だけでなく、『AX』に登場する他の殺し屋も、家庭を持っている。『AX』が扱うのは、殺し屋という職業と、家族の二律背反的な物語である。

 

兜こと、三宅兜は昼間は文具メーカーに勤めるサラリーマンの顔を持っている。だから、妻や息子も彼が殺し屋であることを知らない。家庭では、妻に怒られることを非常に恐れている。そして、あまりの卑屈さを息子の克己になじられたりもする。それでも、兜にとってこの家庭はかけがいのないものであった。

 

夜明け前に、全身宇宙服のような重装備で、業者の手を煩わせることなく、兜は自宅に巣を作ったスズメバチを退治しようとする。それもまた、妻に怒られる材料であると知りながらである。

 

スズメバチといえば、『マリアビートル』に出てくる殺し屋もスズメバチであった。男女二人組のスズメバチは、毒薬をつかう殺し屋であったのだ。

 

どういうはずみなのか、兜は自分が友人がいないことを気にし始める。妻や子供の手前、友人の一人もいないのは恥ずかしいと思ったのである。そこで、ボルダリングなどの仲間を通じ、友人をつくろうとする。

 

兜の殺しの依頼の窓口になっているのが、兜の通いつけの医師である。良性、悪性など、ガンの手術に見立てながら、手術するかどうかの交渉を行うのである。だが、標的が誰であるのかは、そのときになるまでわからない。しかも、医者が窓口をやっているのは、兜だけではない。他の依頼を他の殺し屋にすることもあるのだ。

 

最悪、標的が顔見知りの場合もあれば、逆に顔見知りに狙われることもある。

 

岩明均の『寄生獣』のように、学校の美人教師だって、自分の正体を知る寄生獣と入れ替わっていることもあるのだ。

 

そして、物語の中では、最悪の事態は、起こるものである。

 

妻子が何よりも大事、友人を作りたい、殺しのターゲットは自分で選べない。基本的には、たった三つのこの要素で、物語は展開してゆく。これだけで、私たちは悪い想像をしてしまう。そして、その想像は正しいのである。

 

読者は、『AX』が、それまでの二作とは大きく異なっていることに気づく。数字や章題の代わりに、各セクションの前に置かれるのがずっと同じ名前「兜」が続くのである。そして、これが変化するのは、物語の後半になってからだ。二つの名前が交互に続く。物語の柱となっているため、なぜそうなるかをここで説明するわけにはゆかない。

 

綿密に描写されるのは、普通のサラリーマンと変わることのない兜の家庭生活である。多くのサラリーマンが、共感せざるをえないような、女房の顔色をうかがう毎日、夜食の魚肉ソーセージをめぐるエピソードがそれを物語っている。

 

「最終的に行き着くのは」

「行き着くのは?」蜜柑が聞き返した。

「ソーセージなんだ。魚肉ソーセージ。あれは、音も鳴らなければ、日持ちもする。腹にもたまる。ベストな選択だ。

p10

 

だが、その一方で超ブラック企業的な、殺し屋業界の掟がある。いったん引き受けた依頼は、最後までやり遂げなければならない。

 

殺し屋というまったく自分には無縁の話をしているはずなのに、いつのまにか家族の話になったり、家庭生活を破壊しかねないブラック企業の話になったりする。だから、ほとんどサラリーマンは身につまされる。

 

『AX』は、殺し屋小説と家庭小説を融合させた伊坂幸太郎の新たな試みである。けれども、その生活感あふれるリアリティゆえに感動的になる代わりに、前二作にあった、自分の生活から懸け離れた絵空事ゆえの軽快なエンタメとして読み流すことが困難である。どちらがよいのか、あるいは、どちらもよいけれどもどちらが好きなのかを判断するのは、読者しだいである。

 Kindle版

 

関連ページ:

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